アルフォンス・エルリック。
彼の生きてきた十四年の人生には一つ違いの兄に対する劣等感が散在している。

最初にそれを感じたのは、幼い頃に家を出た父親が兄エドワードの誕生日に子供には到底相応しくない錬金術の古書を送った時。二月前のアルフォンスの誕生日プレゼントは如何にも子供が喜びそうな木彫りの兵隊のくるみ割り人形だったから、そこに何か深い理由がある気がしてならなかった。実際に兄は数年後にその古書から記述を拾い集めて人体錬成の理論を組み立て完成させたのだ。
父は兄の錬金術の才能を見抜いていたのだろう。そして、相応しい贈り物をした。
自分の手元に残ったくるみ割り人形はきっと適当に選ばれた物。それでもアルフォンスはそれを捨てられなかった。父が恋しかったのだ。
次にそれを感じたのは、幼馴染のウィンリィが兄から貰った一輪の野花を押し花の栞にしたと知った時。同じ日にアルフォンスが一生懸命に編みあげて送った花輪は忘れて帰ってしまったのに。ネックレスを形作った色取り取りの花が、草原の青の中に寂しそうに揺れていた。アルフォンスがはっきりとした劣等感を覚えたのはこの時だった。

アルフォンスは考える。
自分と兄を取り囲む人間達は、きっと平等に自分達兄弟を扱っていると思っているだろう。けれど。
いつだって最後に頼られ信頼を得るのは兄の方である気がしてならないのだ。
ただの妄想だと、自分を笑い飛ばすこともできない。
それでもアルフォンスがエドワードの弟として片時も離れず側に居たのは、そこがアルフォンスの居場所であったし、誰からも愛される兄を矢張り自分も愛してるのだと自覚していたからだ。それは兄弟愛であり、家族愛であるが、一般のそれよりもきっと深いだろう。
そして母の死が兄弟の絆をより一層深め、母親を蘇らせようと起こした事件の結末が今のアルフォンスから兄離れの機会を奪ってしまった。肉体を失い、兄の右腕と引き換えに鎧の姿でこの世に定着したのだ。
兄は至高の存在となった。なくてはならない、絶対的なものに。

アルフォンスは鬱積していく感情を押し込めて毎日を生きている。

それだけなら、何の問題も無かったのだ。
誰からも愛される兄を敬えた。

けれど、変化は訪れてしまった。



右手に、甘い感覚が残った。
白い大人の指が絡まるビジョン。

ある優しい大人が、兄と同じだけ自分を大切に思っていてくれると、アルフォンスは信じてしまった。父にも初恋の幼馴染にも運命にだって選ばれた兄と同じだけ、上でもなく下でもなく。多くも無い少なくも無い愛情を得られたと。

『アルフォンス君の手は大きいね。羨ましいよ』

そう言って触れてくれた人にアルフォンスは期待してしまったから。
それを忌々しげに見つめる兄に初めて優越感を感じてしまったから。
彼に対して生意気な言葉しか吐けないエドワードは、今までアルフォンスがそうしてきたように内に燻る感情を飲下すしかできないでいる。
彼に好意を抱きながらそれを表に出せないでいる兄。
対してアルフォンスは驚くほど柔軟になれた。
貴方の事が好きですよと伝えれば、私もだよと奇麗な笑みが返される。
立場が逆転した感覚は心地よく、アルフォンスは酔いしれた。
直属利上司である彼に従う立場であるエドワードが彼に目を掛けられるのは当然のことだが、兄弟で居合わせた時、実際に会話や接触のスキンシップを求められるのはアルフォンスだったのだ。
自分の方がなどとは思わなかった。そこまで盲目になる程浅はかではない。
言葉はコミュニケーションの一環に過ぎないだろう。
それでもきっと、兄と同じだけ自分は好かれている。
それで充分だった。
ささやかな幸福だった。



しかし、物語は兄・エドワードを中心に巡っているのだ。
その感覚を忘れた訳ではなかったのに。



目の前に薄汚れた軍人が崩れ折れていた。
月の明るい晩。アルフォンスは読書に没頭する兄の夜食を買い出した帰り道に偶然そこに居合わせてしまったのだ。数分前に路地の暗がりを歩いていたアルフォンスの前を横切った車が捨て去ったのだろう。死角になってその瞬間は目撃していないが、ブレーキの音とドアの開閉音からそれを推測した。

そこは人気の無い裏通りの歩道だった。

その人は打ち捨てられた手足でもがきながら立ち上がり、ふらふらと壁を頼りに歩き出した。背後の存在になど気付く様子も無く。

「………ド…」

唇には何やら音を乗せている。

「…エド・ワード……エド…エド………」

音色は兄の名を表していた。
だらしなく開いた襟元からは赤い印を散りばめられた細い首が伸びていて、その小さな模様が何を意味しているか位、十四年の人生の知識で窺い知れた。

その人について回る黒い噂を思い出す。
昇進の為には戸惑い無く身体を差し出し、有益に働いた部下にも代償として色を与えると。
勿論アルフォンスはそんな噂は鼻から信じていなかった。兄もそうだ。噂はその人の勤務する東方司令部よりも、兄の用事で訪れる軍部の中枢、中央司令部でこそ耳にする。兄が直属の部下であると知れると、あからさまに突っかかる者もいた。幼い外見の兄に性を仄めかしてからかう目的もあったのだろう。『お前もしっかり働いて、大佐のおっぱい吸わせてもらえ』そう口にした尉官をエドワードは殴り飛ばしていた。それも鋼の右手で思い切り。沸点を感じる前に身体が動いていたのだと言い張るエドワードにその人は溜息を吐いていた。(顎を歪ませた尉官の上司にその人は頭を下げて謝罪したらしい。兄も納得はできずとも多少の反省したようだ)
本人の行動圏で語られることの無い噂話など、羨望や嫉妬にまみれた安いゴシップでしかない。だから吐き気を催す位に下らなく、本当にどうでもいい事柄だった。

噂に誘発された愚か者の仕業かと思った。
けれど、何故兄の名を呼んでいるのだろうか。

「…エド…エド…」

異常な程の一途さでそれは繰り返されていた。
疑問と、激しい怒りと混乱が綯い交ぜになって目の前が眩みゆく。
そして、出遅れてしまった。それは悪く重なった偶然の一つだった。
痛々しい後姿が建物の角で支えを無くし、脇に伸びる路地に投げ出される。崩れ落ちた体は弛緩し、その面が天を仰いでいた。
月明かりが何時もより煌々としていて、それが余計なものまでアルフォンスに見せてしまう。髪といわず顔といわず、陽の元では真っ青な指し色となる制服にまで飛び散る乾いた卑猥な物の名残だとか。

「…エド…」

呟く唇の微笑や、真っ直ぐに闇を貫く狂気を孕んだ黒い瞳の、その幸せそうな表情を。
繰り返される名は呪文。
全てを元通りにする呪文。
何事も無かった事にする。…目の前の人はきっとそう信じている。

「マスタング…大佐…」

アルフォンスの声は届かなかった。
彼の童顔を際立たせる甘く整えられた髪は醜い物で所々が固まっている。
月光に照らし出された彼は恐ろしいまでに蒼白くて。


崩れ落ちる足元の、その感覚によろめいた。



平等?笑わせる。



この人が求めるのは兄エドワード・エルリック。
この人も僕を見てくれない。



激しく揺さぶる感情の波に打ちのめされて、アルフォンスの思考は強く白んだ。