ジャンは走っていた。



時折、転げ落ちそうになりながら薮の中を走る。早くどこか、獣道でも良いから、この小さく手足をいたぶる雑木が途切れる場所に出なくてはと思いながら、綻びと継ぎ接ぎだらけの粗末な着物の裾を跳ね上げつつ、我武者羅になって駆けていた。

薄暗い森の中でもジャンの存在はちらちらと目立った。黒髪、黒い瞳であって当り前という、異民族の血が交じり合うことのない島国で、彼の金とすら見紛う薄茶の毛色と、同じく色素の薄い眼は余りに異質であり、それは彼自身も重々承知しているところであった。


−−−だから、母は俺を殺そうとしたんだ。


つい先程、母に連れられ訪れた河原での出来事をジャンは冷めた頭で反芻する。
数年続いた日照りのせいで収入源となる筈の田畑の実りが悪く、税として取り立てられる分を除けば、自分を含めた、祖母、父、母、兄二人、姉一人、弟一人、末の妹一人の家族を養える程度の食べ物も残らない。塩や味噌に変えることもできないのだ。仕方なしに草履を編み、葦や薪を刈って山二つ越えた町まで出向き売り歩くが、乾魃はどこもかしこも不景気にし、行きも帰りも背負子の重さが少しも変わらぬ日が続いた。村にいた孕み女は中身をひり出して腹を引っ込ませたくせに、肝心の赤子の気配が無いという事が近頃ではよくあったし、台所事情がいよいよ不味く、何か手立てが、それも早急に必要であろうとなど子供の目にも明らかであったが。

だがよもや。
よもや、己の家で間引きが行われようなどと。
それも、下に二人の弟妹がいるのに己が切り捨てられようとは思いもしなかった。

突然石を掴み襲い掛かってきた母に、汚れた手ぬぐいを洗っていたジャンの背後は無防備であった。強烈な一撃を後頭部にゴツリと受け、悲鳴を上げながら飛び退いたジャンは、冷たい流れに尻を着きながら影を落とす母を見上げた。
母はきつく口を引き結び、ボロボロと涙を滴らせながら、何も言わずに再び石を振り上げた。


ああ、俺は口減らしに殺されるんだ。


瞬時に理解したジャンは、必死になって逃げ惑い、思いつく限りの許しをこうた。




はぁまんま喰いてやぁ喰いてやぁ言わねぇで
仕事もすばくらぁせんで

へぇだで、許してくりょ
殺さねぇでくりょ




尚も追いかけてくる母から死に物狂いで逃れ、流れに流されそうになりながらも川向こうの森へと飛び込み、今に至るのだ。
最早帰る家は無いのだと子が悟ったことに気付いたか、はたまた我子の命を毟り取るのが忍びなかったのかは判らぬが、鬼と化した母親も山の中までは追っては来なかった。


それから、更に一刻走り通し、二つ目の山の中腹に差し掛かった辺りで漸くジャンは一息ついた。じっとりと湿った樹木の幹に手を当て、殴られた後頭部に手を当て傷口を探った。
硬い石に擦り潰された表皮は裂けて血を溢れさせたようだが、既にカサブタとなって落ち着いている。周囲の髪を幾つもの小さな束の様相で凝り固まらせた流血の名残が、ぶしょったく伸びた爪の間に赤茶けてこびり付いた。


こんな髪だから。
こんな眼の色だから。

今年で七つになって、二人の弟妹よりしっかり働いていたのに切り捨てられたのだ。


悲しいのかどうかはわからない。
ただ、本当に一人きりになってしまったことを思い、ジャンは暫し涙を零した。






幾等谷間の集落に生まれた山育ちの身とはいえ、普段分け入ることのなかった見知らぬ森はどこもかしこも薄暗く、気色が悪かった。聞き慣れたキビタキの鳴き声すらも不気味に響く。
母が子を手に掛けたことは、恐らくは家族にも知れたであろう。そして、間引かれた赤子のようにジャンもまた、元より居ない者とされているに違いない。酷い裏切りではあったが、それでも人の喧騒に満ちる場は恋しく、馴染みのない山奥で独り切りは余りに心細過ぎた。
日が暮れれば獣の気配に怯え、それでもジャンは一滴の涙も惜しむように唇を噛んで愚図りたくなる衝動に耐えた。
運良く見つけた木の実を齧り、清潔な水を求め、それから二日の間、ジャンは人の往来を探して山中を彷徨った。

漸く街道に辿り着き、ぽつりぽつりと行き交う旅人の姿を発見した時には、ジャンの精神の糸は既に限界まで伸び切っていた。耐え切れぬ負荷と緊張の緩みが同時に襲い、頭のどこかでぷつりと音がして、どうと真横に倒れ込む。ぼやけた視界の向こうで葛籠を背負った旅人が何事かと振り向くと同時に辺りは真っ暗闇に包まれた。




ジャンが昏倒した場所は、細長い島国の東都と西都を結ぶ要とも言うべき往路であった。町中程とは行かずとも、峠を行く脚が絶えることはない。それでも脇の草むらでぱったりと気を失う童子を気にかける者はいなかった。薄い髪色は大層珍しいものであったが、子の纏う小汚い着物や汚れた手足には面倒ごとの匂いが漂っていたし、何より見知らぬ子供が一人死のうと生きようと、旅路を行く者には関わりの無いことであった。疲れた足を清める為に浸した川の流れに骸がぷかりと浮かぶ様子なども、然程珍しいことでは無いのだ。そんな世であるのだから。

そこで丸々一日眠りこけていたジャンは、翌日の朝に目を覚まし、朝梅雨に湿った草むらから這い出て決して広いとは言えぬ往路に立った。白装束の旅人が一人胡乱気な表情で見下ろし通り過ぎるのを何の感慨も無く見送り、その姿が遠くなった頃に疲れ切った棒のような脚をそちらに向ける。何とは無しに白装束の旅人の背を追う。突っ立ったままでも埒が明かないのでそうするしかなかったのだが、日も昇り陽光が力強さを取り戻した頃には、踵を一つ蹴り出すのも酷く億劫になり、遂には道脇の立木の影に腰を下ろしてしまう。

白装束の旅人の背中などは直ぐに見失ってしまった。日向を歩いたせいか、頭が痒い。背中にも脇にも、先程からぼりぼりと爪を立てている。
蚤やダニがいるのだ。

ああ、痒い。
痒くて、休めない。

折角木漏れ日に身を潜めたというのに、ジャンは取り付かれたように頭を掻いた。
力が入らぬ指先を髪に埋めながら、ぐったりと寝転がる。


それからどれだけの刻だ過ぎたであろうか。

極度の疲労と脱水症状から意識を飛ばし欠けていたジャンの耳に、鈴の如き不思議な響きでもって届く声があった。


「そんなに掻いてしまってはいけない」


撫でるような柔らかさで突き立てた両の指をどかされ、ジャンは不満げに邪魔する者を見上げた。

真っ黒なまなこが一つあった。


「傷だらけになってしまうよ」


まなこがゆるりと笑う。

まなこの他に奇麗な鼻筋と朱色の唇があり、それが左半分を前髪で隠した真っ白な肌の娘の面だと気付くも、只ぼんやりと見上げることしかできずにいた。
年長に見受けるも、この歳の頃は女の方が成長が早いので、実際はジャンともそうは変わらぬのかも知れないが、それでもその印象をどう表現してよいのか咄嗟の判断をしかねる。

姉風を吹かせる少女の様でもあり、面白い物を見つけてほくそえむ幼女の様でもあり。

何とも落ち着かぬ。

熊蜂でも入り込んでしまったかと思う程に、臍の奥がしきりに騒いだ。

少女はすぐ側に膝を着き、ジャンの頭を持ち上げて緩く崩した脚に乗せた。
何を、と警戒するも、疲弊しきって動かぬ身体はされるがままだ。

うう、と一つ呻く声に、


「酷いな、蚤だらけだ」


と答えるその声音には少しも戸惑う響きは無かった。





ぷつり、ぱつり。




それは蚤の潰れる音か。
それとも、少女の恐らくは美しい桜色をした爪の腹が、虫を追って擦れ合う音か。



昔、大好きな姉にこうして蚤を取って貰ったことを思い出す。



生かされもせず、殺されもせず、底無し沼に片足を突っ込んだ格好での暮らしの中、楽しみといえば飯を喰うかまぐわうかしかない百姓に、好い加減で打ち止めておこうという自制心がある筈も無い。寧ろそれこそが辛い労働と貧しさに耐える秘訣である。しかし、ジャンを孕んだ時点で止しとすれば、母はあんな風に鬼にならずとも済んだのかもしれない。祖母と、父と、二人の兄と、歳の離れた美しい姉と、こうして離れ離れになることもなかったのではないか。否、そもそも、弟妹どもは本当に無事なのだろうか。もしかすれば、あの時偶々手を掛ける機会があったのが己で、その内に下の二人も殺されてしまうのかもしれない。
或いは、もう既に。

埒も無いことを考える。

もう一度、姉の優しい顔を思い出すと、臍の奥の喧騒は次第に遠退いていった。