いつの間にやら寝入ってしまったらしい。
目覚め立ての翳んだ頭で、首の辺りを掻きつつ身を起こしながらも、何かが足りぬ焦燥に眉を寄せた。
避暑地とも呼べる木漏れ日はとっくに位置をずらしてしまったようで、あの忌々しい陽光が再びジャンに降り注いでいる。それでも先程までの狂いそうな痒みは随分と治まり、少し汗ばんだ着物が不快なだけであった。頭を這い回っていた寄生虫が奇麗に退治されたのだと知り、そして毛繕いをしてくれた少女の存在を探して視界をぐるりと回した。

所詮は遊び半分の気紛れに過ぎなかったのか。
その姿を見止めることはできなかった。



わいわいと騒いでいた臍の奥が、一変してじんわり冷えゆく。




たかだか数日では慣れる筈もない孤独に今度こそ押し潰されると感じた時、頭の後ろにひやりとした物が当たり、ジャンは素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。


「両目が零れ落ちそうだ」


縮み上がる身体で振り向いたジャンを見下ろした少女が、何が面白いのかそんな言葉を放って笑い転げた。手にした濡れ手ぬぐいで時折膝を叩きながら身体を二つに折り苦しげに息づく様が溜まらなく癇に障り、腹の立つまま左足を蹴り出すも、それをひらりと避けられて益々気分が悪くなる。鬱憤のままにうがぁと騒げど、少女は益々可笑しそうに笑うばかりだった。




「お前は此処で何をしているんだい?」


日陰に回りジャンを座らせた少女は後頭部の傷を念入りに調べた。三日前に殴りつけられたきり、血のこびりついたままの髪が、手ぬぐいで清められてゆくのを憮然とした表情で受け入れている。全ての顛末を少女によって操られている事実に、ジャンは口をへの字に曲げた。毛根を少し引っ張られるだけでもちりちりと痛むが、とうにカサブタになってしまった傷口は、瘤の疼きしか残っていない。

痛みが薄いことなど救いにはならず、少女の問いになど答えてやるものかと益々口を引き結んだ。

女の癖に生意気だという考えもあったし、母に裏切られた故の他者に対する酷い憤りもあったが、何より容易く手玉に取られることへの反発が強く、最早それは意地だけだと言えなくも無い。
しかし、見ず知らずの者に傷まで晒しておいて何を頑なになる必要があるのか。
ジャンにはわからぬ。
何故、己はこの娘の玩具に成り下がっているのか。


「傷は大したことは無いね。良かった。これなら直ぐに髪も生え揃うよ。その歳で禿げたままなんて可哀相だし、こんなに奇麗な髪なんだから勿体無い」


何気なく吐かれた言葉にこちんとくる。

この忌々しい毛色のせいで殺され掛けた事実を知らないから、そんな浅はかなことを言えるのだ。

しかも少女の言い回しからは里の訛りが見受けられず、遠い都の洗練された言葉が紡がれる。
それもまた気に入らなかった。


「ねぇ、お前は無口だね。男だから寡黙な方が良いと思っているのかい?そんなことじゃあ、いざという時好いた娘を口説くこともできないよ?良いかい、娘というのは褒められた瞬間が一番美しいんだ。その時の表情といったら、可憐な花が咲き綻ぶ様。男の矜持なんて如何につまらないかが良くわかるってものさ。お前がもう少し大きくなって、この陽に透かせば金にも輝く髪を撫で付けて身形を整えれば、きっとどんな娘も放ってはおかないよ」


ジャンの髪を手櫛で頻りに梳きながら、噺家でも乗移ったかの如くぺらぺらと良く喋った。
そして何だか可笑しなことを言っていると考える。女の愛好を褒めちぎる際など、どこぞの誑しかと思うほどに浮付いた声音であった。
ついでとばかりに濡れ布の汚れていない部分で顔を拭われるに至り、ジャンの思考は霧散した。
唇を変な形で曲げられ憤怒したが、少女が平然と言い放った台詞にぴたりと止まる。


「さぁ、私はこの峠を登って東へ行こうと思うけど、お前はどうする?腹も空いたし天辺には茶屋もあると聞いた。ついてくるなら団子を一緒に食わせてやるぞ」


途端、緊張に継ぐ緊張にすっかり縮まっていた胃が勢い良く蠢き、盛大な音を撒き散らしたジャンの腹に目を丸くした少女は、先程の馬鹿笑いをするでもなく、すっと右手を差し出した。
陽に焼けた様子のない内肌はヒキガエルの腹かと紛う程に白い。散々跳ね返った手前、素直に身を任せるのもどうかと僅かに戸惑ったが、そんな羞恥よりも深い部分から沸き起こったぼんやり形を成さぬ欲求に従って繊細な掌を緩く取る。野良仕事で真っ黒に焼けたジャンの手が乗るとその対比はいっそ鮮やかであった。
しかし、寧ろ関心ごとは峠の天辺の茶屋である。
一昨年の正月に雑煮にで喰らったが最後、米とも麦ともとんと縁遠かった故、その味を思い出せば生唾も溢れ出すというもの。

団子…と呟くと、隣りを行く少女の穏やかな笑いが聞こえた。

そうして背を伸ばし合ってみれば、少女の方が頭一つ以上大きかった。
艶やかな黒髪は丸く整えられていて、小刀で無造作に刈っただけのジャンとは対象的である。
着物は白生地。裾にくすんだ水色の緩やかな流水があしらわれ、群青色のやたら尾ひれの長い魚が三匹疎らに泳いでいる。鮮やかな紅帯の結びは荒く、余りは無造作に尻へと垂らされていた。
衣も帯も恐らくは上物の類である。ジャンの纏う、紺地に灰色の熨斗目が延々と続いているような、一枚の反から幾つも捌ける柄ではない。

名主の娘か、大店の子か。

自分の様な怪しげな子供に構うなど、余程世間知らずで御転婆なのだろう。

それでもこうして繋いだ少女の指は、何もかもを失くしたこの手が唯一縋ることを許された命綱に他ならなかった。



砂塵舞う道沿いを左に少女が、脇の草叢なりにジャンが、手を取り合い歩いてゆく。
少女の左手で乾きかけた紺地の手ぬぐいがひらひらと舞う。
道行く旅人の目が時折二人を盗み見た。
見た目麗しい少女がみすぼらしい男子を連れて行く様にどのような事情があるのかと、いらぬ詮索を巡らしているのだろう。
村の外を殆ど知らぬジャンの眼がねで見ても、少女の造形の美しさがどれ程の次元にあるかは判る。そればかりではなく、佇まいや所作の節々にも育ちの良さが感じられた。
急に己の薄汚れた風体が恥ずかしく思えて、居たたまれなさに視線を落とした。
山中を彷徨った足は汚い。草木の汁や土埃で真っ黒に変色している。
少女の下駄履きの細い足首は薄っすらと埃を纏わり付かせた程度の奇麗なものであるというのに。


「しんどいか?」


うなだれたジャンの様子に少女が問いかけてくるも、止まることのない足取りにはあからさまに気にかける気配は無く、ただ付いて行けば良いと思い切れるのが救いであった。
ジャンは一つ横に振るって、その顎を上げた。


「うん。前を向いているお前は良いね」


気落ちを払った強さを褒められたのは単純に嬉しい。少女は穏やかに笑んでいるだろう。顔を覗かずとも想像ができた。