暫く二人は無言で歩み、程なく山の天辺まで辿り着いた。
雨風に晒されて幾年月になるのか、古ぼけた茶屋の軒先には色あせた赤敷布を被った長椅子が二つ置かれ、連れと思わしき男衆が二人並んで腰掛け茶を啜っている。
そんな憩いの風景を見るだけで、ジャンの心は高鳴った。田畑の実りが悪くなってからこっち、峠を越えることは何度かあったが、飲み水(この場合は湯呑みに注がれた薄茶である)の為に立ち寄った位で、食い物客として長椅子に鎮座した記憶は無い。今よりはましな状態であった頃も、道端に無造作に置かれた丸太や石に己を連れ立った父と腰掛け、麦や粟の混じった握り飯を食らうばかりであった。


「団子を二十と茶を二つ下さいな」


ジャンを連れて男衆の隣りに座った少女は手拭を脇に置きつつ、給仕に現れた年配の女に愛想良く注文するが、受けた女は胡乱気に眉を顰めて少女とジャンをねめつける。


「めんちゃー(娘っ子)、銭ゃあるだか」

「あるよ。幾等になる?」

「団子は二十八文、茶ぁ二んつで十四文だ」


赤帯より銭袋を取り出した少女がくるくると帯を解き、中を覗いて小銭を取り出す。ちゃらりと一つ掌で広げそのまま女に差し出した。
使い古され手垢で汚れた銭の枚数を確認した女は表情を変えるでもなく店の奥へ引っ込んだ。
その遣り取りを横目に見ていた旅の衆が、興味ありげに少女とジャンを見下ろしてくる。


「よぉ、お嬢ちゃん。お前ぇさん達ゃどこから来たんだい」


気さくそうに笑う男は、きょろりと大きな目をした中々の美形であった。
身形には気を遣っているのか、道中であるだろうに髷の頭髪をしっかり油で撫で付けている。髭もきちんと剃られていたが、元が濃いようで根っこが青々と残っており、それがまた男臭さを醸し出していた。
その向こうに腰掛ける連れの者も、茶を啜りつつ身を屈め、こちらを覗きこんでいる。
そちらは少々垂れ目の、如何にも人の良さそうな小太りの男であった。
突然向けられた関心に戸惑うでもなく、少女は笑みすら浮かべて可憐な唇に鈴音を乗せた。


「私はずっと西から来たのさ」

「うん?そっちの小僧は仲間じゃないのかい」


寄り添う童子の存在の抜けた少女のいらえに男は首を傾げる。
ジャンもまた、少女がどう答えるのかと気になり、成り行きを見守っていたが、長い睫のまなこにくすりと含みのある微笑で見下ろされて、ろくな言葉は吐かぬだろうと察する。


「この子は私の仔犬だよ。さっき拾ったんだ」


正に憂いだ通りであった。
言うに事欠いて、『仔犬』とは。

見る見るうちにジャンの眉間に皺がより、突き出した下唇より下りた場所の瘤にも縦の小波が立つ。
人として扱われぬより、幼さをからかわれたことに腹が立つ。
百姓の家では七つともなれば立派な働き手である。苦労を知らぬであろう真白な手指をした少女より、ずっとずっと物の役に立つというものだ。


「仔犬か。そりゃあ良い拾い物をしたなお嬢ちゃん。見事な茶毛じゃねぇか!」


なのに、旅の男共ときたらどこを気に入ったのか大口を開けて笑った。
そこには誹謗の類は含まれてはおらぬのかもしれぬが、この髪故辛い思いをしたジャンの心はいたく傷付く。
異質な髪と茶目は凡そ悪い意味で目立った。何をしていても人の視線が気に障る。家族や村人からまるで監視されているような息苦しさがあった。他の者と同じ程度であろうと、仕事を怠けようものならすぐに叱咤が飛ぶ。人と比べられずにはいられぬ。
これからも一生こんなふうに笑われて生きるのか。

目元に熱が篭り溢れ出そうになった時、


「うん。一目で気に入ったんだ。誰かに攫われてしまう前に見つけられて良かった」


少女の穏やかな声音がそれを塞き止めた。

予想だにせぬ温もりをその声に(或いは言霊に)見出したジャンは、咄嗟に涙の引っ込んだ双眼でもって少女を見上げ、そうして再び臍の奥に大量の熊蜂を飼う羽目になる。

片方だけの真っ黒なまなこが、何とも言えぬ加減でジャンを見ていたのだ。
勉学などとんと無縁の環境で育ったジャンの語録から、それを的確に表現する言葉を選ぶことは難しい。
ただ、ぬるま湯のように、人の温もりの染み付いた柔らかな羽織のように、包み込むような。

時の止まってしまった軒先に、呪縛を受けることのなかった茶屋の女将が盆を持って現れる。
客を相手にするには些か横柄な態度で団子と茶の乗った盆を置き、来た時同様言葉無く奥へと戻って行くのを、「愛想のねぇ女だ。辛気臭くていけねぇや」と男前が愚痴る。
その向こうの小太りからは、「団子も茶も高ぇ」などと嘆く声が聞こえた。
少女は別段気にした風も無く、盆の物をジャンに薦める。淹れるには良い塩梅だが口にするには熱過ぎる茶に気をつけるよう促しながら、その手にも湯呑みを取った。


「何てぇか、事情がありそうだなぁ、お前さん達」


少女の先程の様子に感じるものでもあったのか、男前が神妙な顔付きで尋ねてきた。
茶の熱気を懸命に息を吹きながら消しているジャンにも、拾われた経緯、親はどうしたと質問が飛んだが、いやはやどうにも答えられずに黙りこくるしか無かった。
捨てられた。
ましてや身内に殺され掛けたとは言いたくはなかった。
その事実を受け止め切れてはおらぬ。
現実が如何に不変のものであろうと、小馬鹿にするくらいに肝が据わらねば、語る言葉は窄んだ挙句に嗚咽に塗れるやもしれぬ。


「何だって良いさ。この子が自分の脚でついてくるなら私は構わない」

「しかしねぇ、やっぱり番所に届けた方が良いぜ。お嬢ちゃんもよ、こんな山ん中で遊ぶにゃ、ちと心許ねェ。ここんとこの景気の悪さで農民や落ちぶれ侍が山賊紛いの真似をしやがるってぇからよ」


さりげなく、少女が話の流れを変えてくれたが、納得せぬ男衆は尚も言い募る。
番所の言葉にジャンは密かに怯えた。意地悪く年貢を取り立てるお上は只々恐ろしい物でしかないからだ。それに、ジャンのような余り者なら近隣のどの村にもいるだろうに、特別計らいを受けたという話は聞かない。
村長とて人の子を育てるゆとりは無く、それどころか、余所の村に奉公に出された子供が囚人と共に鉱山に押し込まれ重労働を課せられるという噂もあった。

良く喋る男前は少女のことが気に入ったようで、話の半ばから随分と熱心に眼差を注いでいる。
紅い唇の端をくいと上げた少女が、軽薄な調子で哂った。


「ふん。山賊なんて怖くはないよ。刃物に酔いしれる人切りや衝動だけの狂いと違い、奴等の望みは金だからね。ただ殺してしまうより、賢く稼ぐことを考える。この上等な身体を切り刻むなんて勿体無いこと、できやしないだろ」


指先を添えつつ反らせた胸で己の価値を誇示する少女に、男衆も、ジャンさえも唖然とする。
呆けたつらをした男共が可笑しいのか、少女は尚も続けた。


「私が大人しく従う素振りを見せれば、わざわざ仔犬に無体を働こうとする物好きもいないだろうし、二人揃って命を狩られる心配もまず無い。それから何処へ連れて行かれるかなんて、いっとき先の天気を読むより想像がつく。玉でも蹴り上げてずらかってやるさ」


最後に一層口角を引き上げた少女の、垂れた前髪で見えぬその眼をジャンは思い描いた。
きっと弧を描いて艶やかに哂っていることだろう。
狐に摘まれたかの様相で口を開ける男前が、そのまま溜め込んだ熱を吐き出すよう、やけに長たらしく息を吐き出した。


「こりゃあ参った。お前ぇさん、後六つも歳を数えてりゃあ、俺ぁ放っておかねぇぞ」


遊び言葉も本物と成り、万事この娘の良い様に進むのではないだろうか。
何と言うか真実味を上手に操る天賦の才が感じられた。場の流れを掌握する者に備わった雰囲気と迫力があった。
年端もゆかぬが肝の座った娘の啖呵に感嘆した男達は大いに笑った。
ジャンは久方ぶりの食い物に齧り付いた。
醤油で焼いた団子は芳ばしく、最近では麦もろくに口に出来なかったジャンの飢えをみるみる満たしてゆく。粟や稗も混じっているだろうが、米の配分が明らかに多く、えもいわれぬ美味さときている。
番所に連れて行かれる事もなさそうで、それまで強張っていた頬が知らずに緩んだ。


「私の分も食べていいぞ。茶も良い具合にぬるまってる」


数日の間を朝露や野草の汁で凌いできた故、瞬く間に飲み干してしまった湯呑みに気付き、少女が手許の飲み掛けの物と交換してくれた。
姉のような細やかさを向けられることなど幾年ぶりか。

捨てられぬ。
大丈夫。

この豪胆な少女に付いてゆけば決して独りになることはないと安堵が芽吹いた。