「残念だなぁ。俺等は西へ行く途中なんだ。お前ぇさんら等とは逆方向だ。勿体ねぇなぁ」


濃い眉をへにょりと曲げた男前がしきりに唸るのを、少女は面白そうに見ている。
良い大人が、年端も行かぬ娘にお遊びでも懸想する様子は滑稽だった。


「でもまぁ、またどこかで遇うかもしれねぇな。そんでいい女になってたら今度こそ口説きてぇ。お譲ちゃん、名前を教えてくれよ。坊主もよ。俺はマサでこっちのはロクってんだ」


手前に居る男前が己と連れの小太りを指差し名乗った。
冗談にもなる軽さで連なる言葉の一体何処までが本気なのかはわからぬが、気さくな人情家にも見える男達に、ジャンもまた特に思う節も無く、少女に倣えば良いかと流れを待つ。
しかし、少女は僅かに視線を落とし、それまでとは違うどこか虚ろな笑みを浮かべた。


「残念だけど私に名前はないんだよ。この旅に出る時に、この帯以外の持ち物はみんな捨ててしまったからね」

「何でえ。行きずりの男にゃ教えられねぇのか」

「違うよ。本当に捨てたのさ。色々と邪魔な物が多くてね。名前もその一つだったのさ」


胴に巻いた真っ赤な帯を撫でる細い指。
その仕草や言葉の選び方に、からかう素振りは見られぬ。
たかが名前の一つも明かせぬとは余程の事情からか。
其れ故の一人旅であるのか。


「だがよ、いつかまた見かけた時によ、お前ぇさんが艶ぁたっぷり含んだ大層な女になってたとして、そん時まで『お譲ちゃん』なんて呼ぶのも可笑しなもんだろ」

「ははは、そうだね。今は仔犬もいるから、名無しは確かに不便かもしれないね」


男前の愚図りにも似た言い草に、少女も納得したかに目元を緩めジャンを見下ろした。
それから視線を正面の雑木林に向け、暫し沈黙を纏う。何を思案しているのか。
ほんの僅かな時の果て、「うん。」と一つ頷き、
少女は隣りの男を見上げて、こんなことを言った。


「これも何かの縁だ。兄さん達、私に名前を付けてくれ」


これにはジャンも些か驚き、少女の無謀を不安に思う。
一時のあざなならばいかようにもなるが、本名を捨てた少女が持つならそれが唯一となる筈だ。そのような安易な扱いをして良いのだろうか。
突然の成り行きに、当然ながら男達もうろたえる。


「俺達に名付け親になれってのかい」

「ああ。あんた達、東から来たんだろ?大きな都からさ。」


おもむろに言葉尻を上げ問いの形を取った少女は、その聡明な瞳を煌かせて、先だってジャンの容姿を誉めそやした時と同様の熱弁を振るった。


「こんなご時世に身軽ななりで随分と気ままな旅をしているように見えるけど、その分沢山の粋や風流を見聞しているに違いないと思うんだ。そんなあんた達なら素敵な名前をくれる筈だよ。ねぇ?有触れたつまらない語呂なんて御免だから、ちょっとばかり破天荒なくらいのお人等に頼みたいのさ」


気ままな旅、破天荒などと凡そ褒めてはおらぬ単語の混じった台詞を男達がどう捉えるかが心配である。
はっきりとせぬ態度を取る二人に怒りの色は見えぬが・・・。
すっかり蚊帳の外扱いのジャンが窮屈に感じながら事の次第を見守る中、細の首さにもげてしまいそうな頭が、手前の男前と奥から顔を覗かせる小太りを見つめ、ことりと一つ傾いで見せた。

私の申し出を断ったりはしないよねぇ?

そんな、己の優位を信じきった傍若無人な台詞が聞こえてきそうである。
少女を真背中から見上げるジャンですら読み取ったのだ。正面から彼女を見据える男達に伝わらぬ筈はない。
案の定、男達は揃って曲げの頭を振り、


「仕方ねぇ。別嬪さんの頼みだ。聞けねぇ道理はねぇや」

「おう。所帯も持ったことのねぇ俺等が名付けの親になれるたぁ、中々ねぇ話だしな」


ぱんと一つ腿を叩く子気味の良い音を男前が鳴らせば、今一つ間の抜けた声で小太りが抜かした。
どうやら話は上手く纏まったらしい。
それから暫くの間、男達は頭を捻り知恵を出し合った。
先に粋や風流が何たるかを見知っているであろうと決め付けられてしまったが為に、下手な言葉は初めから弾かれている様で、ジャンの知らぬ難しげな例えが、あれやこれやと放られる。時には男前が小太りの思慮の無さを罵倒し、また時には小太りの方が男前を言い含め、更には二人揃って少女に首を振られる。中々思うようにゆかぬようだ。


「何かよう、嬢ちゃんの姿を見ていると、思い出すもんがあるんだよなぁ」


うーん、うーんと懸命に首を傾げる小太りを尻目に、ジャンは最後の団子に喰らいついた。
そうして頬張った団子が全て臓腑に滑り落ちた頃、気の短いと見える男前に急かされてしきりに剃り上げた頭を掻いていた男は、「おお、」と、閃きの高揚などさして感じられぬ凡庸とした声を上げた。


「金魚だよ。やたら真っ赤で尾っぽをひらひらさせてやがる金魚だ」

「成る程な。その赤帯に着物の柄。うん、確かにおあつらえ向きだ。だが、そのまま金魚ってんじゃあ芸がねぇ。よぉ、ロク。金魚にゃあどんな種類があった?」

「うーん。和金だろ。出目金。流金。らんちゅう。他にはえー、地金、土佐金、南京ってのが特産で高級だな、うん」

「どれも、ぱっとしねぇなぁ、おい」

「詳しいんだな」


少女の関心に、「ああ、こいつの妹の嫁ぎ先が時期物で金魚を扱っててよ」と男前が注釈を入れる。
小太りは更に天を仰いで記憶を探っている。


「和金は他にも呼び方があるぜ。まだ子供んのが小赤だろ。ちいとばかしでかくなったのは姉赤。赤と白が混じったのは更紗とか更紗金とか呼ばれてんな」

「それだ。着物の白と帯の赤で更紗。響きも良いじゃねぇか。どうだいお嬢ちゃん!」

「んー、でも白勝ちの奴はあんまり価値はねぇんだぜ」


相棒が申し訳程度に付け加えた異論をさっぱりと無視し、陽に焼けた顔を興奮させて詰め寄る様は、まるで先生と呼ばれるくらい目上の者に己の作品を見せ、褒められるのを期待している子供のようである。
さぁ、これはどのような結果になるか。
随分と自信ありげに返答を待つ男前をじっと見上げた少女は、その頭を僅かにずらして小太りの方を見る。


「赤勝ちの方が見栄えが良いんだろ?この帯だけじゃあ『更紗』は気取った感じがするな」


暗に気に入らぬとのたまう少女のまなこが己を通り過ぎてしまったのが不服なのか、男前が下唇を突き出してあからさまに不貞腐れて見せた。


「それより、私は小赤の呼び名が気に入った」

「そりゃあまたどうしてだい。小赤なんてのは金魚の中でも一番下っ端だぜ?」


お前ぇさんには合わねぇと納得ゆかぬ様子の男前に、


「うん、けれどもこの帯にもぴったりだ。仔犬と並べてもしっくりくる」


にべも無く言葉を放った少女が振り返り、嬉しげにジャンを見下ろしてくる。
仔犬はジャンの単なる形容では無く、既に名前であるらしい。
肩を竦めて茶を啜る。
出逢ってたかだか数刻で随分とこの娘の調子に慣らされてしまった。こんな突拍子の無さにも怒りが沸かぬのが不思議である。己はそれ程懐きの良い性質ではなかった筈だと少々気恥ずかしさを感じた。


「でもよぅ、小赤なんて源氏名みてぇじゃねぇか」

「結構さ。可憐な彼女達にあやかれるなら願ったりだよ」

「可笑しな言い草をしやがる」


これでは名付けを任されたとは言えぬのではないか。
男前は少女の奔放と己共の役不足を嘆いたが、そんなことはないと少女の首が振れた。


「名で縛る気にもなれたのも、その名をこんなに気に入ったのも、兄さん方のお陰さ」


ありがとう。


傾いだ頭の黒髪がさらさらと落ちる。照りつける太陽に白くぼやける輪郭は発光している様であった。
きっと、美しく微笑んでみせているのだろう。纏う雰囲気が何とも柔らかい。
男前のきょろりとしたまなこが心許なく遥か明後日を彷徨うのを、腹の奥に溜まる重苦しさを抱えながら一瞥した。

この娘の美しさや温かみが垂れ流されているようで気持ちが悪い。
無駄に消費されるのは気に喰わぬ。

気さくな男共を嫌う理由も無いのだが、ふいに少女の手を引いてこの場から離れたくなった。

眉を寄せ、不機嫌を露にするも、茶店に着いてこの方一言も発していないジャンがその場に水を差せるでもなく、そうして当然の流れで名を尋ねられた。
黒々とした心持を何とか捻じ伏せ、ジャンもまた少女を習い胸を張った。


仔犬だ。と、短く答えた。


「おいおい、お前も訳ありの態度かよ」


思いもせぬ応えであったのだろう。密かに望んだ通りの呆れ顔を、ジャンは少し良い気分で眺めた。
少女は更にご機嫌な様子で笑い、その晴れやかさを堪能できただけで充分だった。

これでジャンという子供は死んだ。

切り裂かれたのは母親の手に掛かった瞬間であるが、己自身で捨て去った今日こそが真の命日と言えよう。

たった三日前の出来事が随分と昔に思え、そして些細なものとして薄らいだ。
ついさっきまで欲していた『笑い飛ばせるだけの気構え』などが形を成さずとも、あれ程強烈に焼きついていた母の般若の面は朧となり、力を失くして天へと昇って行ったのだ。

悲しんだだけで恨まずには済んだと、そのことを仔犬が感謝するのはずっと後のことである。今はただ、へばり付いていた恐ろしいものが剥がれる開放感だけを味わっていた。


此処に居るのは小赤に拾われた仔犬。
肉体以外は何も持たぬ天涯孤独の身。


少女が本来の名を捨てたと言うのなら、丁度良い。何処までも釣り合いを計ろうではないか。
そうして國中どこを探しても見当たらぬ程、絶妙の均整を保てる無二の存在となろう。

















「じゃあな、達者でな」


一足先に旅立つ男達の振る手に応える小赤に流され、仔犬もまた小さく掌を揺らした。
賑やかな衆らが居なくなってしまうと、愛想の無い茶屋は静寂に包まれてしまう。
鳥の鳴き声と木々のせせらぎをぼんやりと聞きながら、黒髪や細い首筋に目をやり、これからどうするのかと尋ねる。この少女が一体何処を目指しているのかも仔犬は知らなかった。
正面の彼方へ視線を飛ばした小赤は、ただこの街道沿いに東へ行くとだけ言った。

冷めた茶を流し込み、一息ついて見上げると、乾いた手拭を帯に仕舞っていた小赤もまた少し笑って目を合わす。


「私達も行こうか」


こくりと頷き、少女より早く足の付かぬ長椅子から身を躍らせた。

見上げた太陽の位置は高く、いよいよ暑くなるだろう。

背後で僅かに砂利を踏み鳴らした下駄履きの足が、数歩を数えて側に立つ。その者が見やる景色の中に、これから己も旅立ってゆくだと、その途方も無い実感に仔犬は見っとも無く震えた。


「どうした。置いてくいぞ?」


緊張に強張る仔犬の表情をからかい、すいと歩を進める小赤の細い背中を慌てて追う。

極狭い土地より外を殆ど知らぬのだ。駆け出す己を待ち構えているであろうあらゆる物に、空恐ろしさを抱きもする。
が、勇む心はそれより尚上をゆく。
僅かではあるが強くなれたのだろう。
そして、また更に強くなれると全身で感じた。


薄色の瞳を焼く強い日差しに瞼をしばたいては、この突き抜ける空の青さを決して忘れはすまいと切に思う。


仔犬はこの日、生と死という対極にあるものを同時に心に刻み込んだのだ。
いつか小赤に昔の記憶を尋ねられたなら、迷わずこう答えるだろう。





お前と出会った日に俺は生まれたのだと。