翌朝、馴染みの深いだるさに大きく欠伸をかましながら、覚醒直後の筋肉に活力を漲らせるべく熱めのシャワーを浴びせて浴室から脱衣所に戻ると、パリッと糊の利いた白シャツとカーキ色のコットンパンツ、それに下着が着替え置きとして使用されている丈の浅い籠に奇麗に畳まれて鎮座していた。
グレイシアは変わった女だが、こうした日常生活における気遣いを疎かにすることはない。
美しく、聡明で、家庭的な、男の理想を苦もなく体現できる稀有なる存在だ。だからこそ、親友が絡む事態で見せる表情や言動の突拍子の無さに魅力を感じる。全てが正しい者などいない。
彼女は実にバランスの取れた人間だ。

ドライヤーで適当に乾かした髪を洗面台の棚に置きっ放しにしてある櫛で撫でつけ、軽く身形を整えてキッチンに向かえば、彼女が何時もと変わらぬ様子でフライパンを動かしていた。

「おはよう。グレイシア」
「おはよう。マース」

側まで寄って覗き込む形で顔を差し出し、軽くキスを交わす。何時もと変わらぬ朝の挨拶。スキンシップ。傍から見ればこの上なく有触れたカップルに見えるだろう。

「ロイはまだ起きそうにはないかしら」
「ああ、今日は非番だ。このまま寝かせてやってくれ」

くすりと母性溢れる笑みを見せた彼女が仕方ないわねと嬉しげにソーセージとスクランブルエッグの乗ったプレートをテーブルに並べた。

そこにサラダにパン、ミルクが追加され、完璧な朝食を挟んで俺達は向かい合った。

他愛も無い話をしながら活力の源を摂取しつつ、ふと思いついた事を彼女に尋ねてみた。

「そういえば、君は何故俺のプロポーズを受けたんだ?あんなにあっさりと」

申し込んだ側の俺が言うのもなんだが、その時の彼女の態度はデートの誘いを承諾するのと同じ位の軽さで、随分と拍子抜けしてしまったのだ。あらそう、とそんな口調で彼女は「いいわよ」と答えた。
ロイというお気に入りを見付けたのに、婚姻という契約に縛られる事に何の戸惑いも示さぬのは不思議であった。
そして、今また当時と変わらぬ手軽さで返答される。

「あら、好きだからよ?決まってるじゃない」
「でも、君は随分と俺の親友に入れ込んでいるだろう。少しは緊張してたんだぜ。これでも」

君に振られ、尚且つ親友を男女の契約という形で奪われるのではないかと。
そう続けた俺に、彼女はまさかと返した。

「私はロイと結婚なんかしないわ。可哀相じゃない」
「可哀相?」
「だって、私には彼の野望なんて関係ないもの。きつく縛って閉じ込めてしまうわ。彼を苛める世界の為に彼が傷を増やすなんて許せそうにないし。だから今の距離が丁度良いのよ。偶に両手を括るくらいがね」

何気に恐い言葉を吐きながら彼女は屈託無く笑った。どれも彼女の真実なのだろう。駆け引きの好きな女が、たった一人の人間に関してはあけすけに答える意味に思わず苦笑いが漏れた。親友を<抱いて>いた時の盲執と慈愛に満ちた笑みと同じ垂れ流されるべきものであり、当り前の感情であり。初対面の親友の前でベールを脱いだ瞬間から、きっと素顔を隠せなくなったのだ。自我でくるまぬ本能は時に攻撃的である。俺は気化した毒の如き独占欲にあてられ何とも言えぬ気分になる。

「俺の事も縛るのかい?言っとくけど軍人やめるつもりはないぜ?」

自分達に当て嵌まる形態ではないとわかっていながら、冗談めかして聞く。
彼女も俺の戯言に付き合って律儀に答えてくれた。

「ふふ、貴方はロイの望みを叶えるべく彼を押し上げるのでしょ?それには大いに関心があるから、どうぞこれからも軍人さんを続けて頂戴。寧ろ家庭に逃げ場は無いと思って」
「酷いな。少しは労わってくれよ」
「勿論、大切にするわ。温かい食事を用意して、清潔なベッドでは抱き締めてあげる。そうして貴方はまた殺伐とした職場に戻って頑張るの。ロイの為に」

幸せでしょう?

そう言う彼女の方が余程幸福そうに見えた。
ああ、と俺は笑った。
こんなにも俺自身を理解してくれる他人が他にいるだろうか。
こんなにも、…俺の分身足りえる人間が。

「君は最高のパートナーだ」

心からの敬意を告げると、彼女は口角を大きく釣り上げた。























































女が殉職した亭主の墓前に佇んでいた。

薄っすらと塵を纏うのみの美しく手入れの施された墓石に置かれた白百合の花束を見下ろしながら、ワンピースの大腿部分にしがみ付いている娘の頭をそっと撫でる。娘は眉を潜めて石版を睨んだ。

「パパ、お仕事したいって思ってるよね。お仕事、大好きだもん」

この石の板が父の行く手を阻んでいるのだと言いたげな、その無垢な思想を女は酷くいとおしく思う。

「そうね」

二つに束ねた娘の濃い金髪の片方を弄び、でもね、と続けた。

「この土の中に、パパは居ないのよ」

スカートを握る小さな手に、痛々しいまでの力が篭った。
幼子に語るには残酷な事実を、それでも女は淡々と手繰る。

「けれど、パパのカケラは貴方の中に残ってるわ」

きょとんと、小さな宝石が二つ、己が母を見上げた。
天に昇った訳でも、ましてやお星様になった訳でもない。一般的には大人でも知り得ない魂の行方を子供に説くにはそれに見合ったオブラートが必要だとされているが、女は敢えて小細工を捨てた。
幼子の愛らしい仕草に更に笑みを浮かべた女は、語るとも独り言とも取れぬ声音で更に続ける。

「身体は壊れてしまっても、心の一番大事な部分はちゃあんと貴方の中で生き続けているわ。例えばね、例えば…大好きな人と会っている時、お話している時、お腹が熱くなって胸の奥がしくしくと震えるでしょ?」

娘の頬が赤く染まった。大好きな父の親友を前にする度に恥ずかしそうに母の影に隠れてしまう子供は、未熟ながらも母の言い表すものが恋心だと理解しているのだ。

「それは、貴方の中のパパもその人のことが大好きだからよ。貴方はパパの分も人を愛せるの。素敵ね」
「パパとエリシアは一緒…?」

何かを掴んだように、そっと面を上げた幼い娘を女は満足気に見遣る。

「ええ、一緒。貴方とパパを引き裂くことは誰にもできないわ」
「…じゃあ、エリシアが大好きな人と一緒にお仕事するようになったら、パパも喜ぶ?」
「勿論よ。嬉し過ぎて泣いちゃうかも」

冗談めかしながら夫のお気に入りだった小さな桃色の頬を人差し指の腹で擽ると、可愛らしい仕草で身を竦めた娘が健やかに笑った。
すっぽり抜けてしまったの未来への、愛するが故の執着から脱却することを恐れず、天を仰ぐその姿に女は強靭な精神を感じた。きっと父親から譲り受けたのだろう。欲しい物は全て貪欲に求めた男の血を娘は確かに引き継いでいるのだ。
だからきっと。
きっとこの娘もまた、父と母が盲執する存在を全身全霊で愛さずにはいられないだろう。

「素敵ね。彼は一生私達から離れられないわ…」

パパとずっと一緒と拙い呂律ではしゃぐ娘に、正解など教えはしなかった。近い未来に自ずと答えを導き出すだろうと確信しているからだ。

彼は…ロイ・マスタングは生涯自分達親子を護り通すだろう。
夫を親友と呼びながらぐずぐずに解け合う程の抱擁を交わしてきた不器用な男は、妻である女にも惜しみなくその身体を。その真心を差し出してきた。まるで、親友も妻も一つの存在であるかのように。
マース・ヒューズと血の絆を築いた家族を捨てることなど、恐ろしいまでの深淵と化した愛情を抱く彼にはできまい。

決して離れはしない。

私はグレイシア・ヒューズ。
そして、この娘はエリシア・ヒューズなのだから。

永遠に。


女は膝を下ろして娘の頬に擦り寄り墓石を眺めた。見せ付けるように愛しい存在を掻き抱いてうっとりと呟く。

「有難う、マース。貴方のお陰よ」

生ある限り続くであろう幸福に酔いしれながら夫の愛した微笑を浮かべた。