ジャン・ハボックは無様な姿で柱に括りつけられたかつての上司を
以前と変らぬ凡庸とした眼差しで眺めていた。
剥き出しにされた下半身は打撃などによる単純な虐待ばかりが行われていたのではないと物語っている。
薄汚れた一平卒の制服に付着したものが本人の物なのか、
それとも加虐者の物かは行為の最中を目撃した訳ではないので分からない。
どうでもいい事だ。
目の前の男はハボックの上司であった頃も、
またそれ以前からもそういった手合いの暴力を更に上の階級の上司から受けていたので、
正直なところそれ程の驚愕には値しなかった。
年齢に見合わぬ異例の出世スピードに加えその美貌。
同僚ばかりでなく部下からも卑猥極まりない陰口を叩かれていたが、
それらの凡そは遠からずの事実であり本人もまた否定しようという素振りすら見せなかった為に、
ハボックが彼の直属の部下に配属された当初真っ先に身に着けたスキルは
とにかく『環境への慣れ』とこの一点に尽きた。
『私が頂点に立った時、あらゆる事実が礎になる。
このブーツの底が有無を言わさぬ絶対的な力で全てを混沌の内に踏み固めるのだ。
白も黒も無く、全てを、だ』
爽やかな風が吹き抜ける初夏の午後、
所属していた東方司令部の中庭の一部、木々に囲まれ全ての建物から死角になる秘密の場所で
気候のいい日の慣例となったサボリの最中を邪魔された彼は
不機嫌な表情を不意に綻ばせて笑った。
その前日、彼の出世戦であったイシュバール内戦時に上官下官の間柄であった准将が司令部に訪れていた。
平均よりもかなり抜きんでたハボックですら見上げてしまう程に体格の良い剥げ頭のいかつい人物である。
彼と同じ『錬金術師』であった為にその方面での意見交換、
そして、失踪した『結晶の錬金術師』についての情報交換と称して、
中央司令部からの視察の際に『長居』をして帰るのだ。
情報の交換や収集など、薄っぺらな名目に過ぎない事は明らかで、司令部内の司令官室は面会の間一切の入室が禁じられた。
准将が去った後の彼は、それまで他の人間から受けたどれ程の厭味や陰口にも動じなかった表情を青白く変え、
目深に垂らした前髪の下、それでも口許には平素の笑みを貼り付けてシャワールームへと消えてゆく。
司令部の直属の部下達は、彼が早く日常に戻ってくれる事を祈り、
まだ配属されて日の浅かったハボックは消化できずに怒りや嫌悪の気配を撒き散らしたのだ。
『私の部下であるなら慣れろ。その代わり世界の変革を直ぐ側で見せてやる』
彼の凄さはその漆黒の眼差し一つで未来に現実味を持たせてしまうところだ。
ハボックの周囲にはこれ程に眼で語れる者はいなかった。
しっかりと視線を絡め取られて宣言された時、
真っ黒な宝石に映り込んだ己が球体の檻に閉じ込められたかのように感じられて息を呑んだ記憶は鮮明である。
その日から、ジャン・ハボックは、彼…ロイ・マスタングに囚われている。
あんな大きなこと言っておいて結果は此れですか?
ハボックはトレードマークである煙草の先端をくいと上げた。
マスタングの瞳には同室内の扉の前に立つかつての部下の姿は映らない。
自白に用いられる新薬の実験台にされているのである。
彼はイシュバール戦の折に、あらゆる薬物の耐性を身に着けていたようで、
陥落させられたなら、有効な手段を獲得した事になるのだそうだ。
統治者不在の今、列強国による侵攻の危険に晒されているわが国において、
不審者からの速やな供述聴取は急務であり、
あくまでロイ・マスタング伍長の同意の上で…とかなんとか。
アポイント無しで突然現れた中央司令部所属の少尉に、
田舎の司令官はしどろもどろになりながらも懸命に正当性を主張していた。
軍部の形態がマスタングの手によって崩壊する以前、
この北方司令部より少し離れた場所にある大規模な軍事収容施設の内部では
秘密裏に薬物精製を専門とした国家錬金術師によって様々な人体実験が行われていたらしい。
イシュバール戦や一連の惨劇の発端となった『賢者の石』の関係に比べれば小規模ではあるが、
それでも行われてきた実験の数々は凄惨極まりなく、
新体制になって直ぐに研究機関の責任者であった国家錬金術師は資格を剥奪され、
当時の所長は軍法会議に掛けられたが名高い家柄が影響し微刑の後に軍を去った。
この司令部の司令官もまた人体実験の事実を知りながら、防衛には已む無しと黙認していた為に降格し、
西の軍事施設に飛ばされたらしい。
そして今現在、上司の失脚により暫定的に司令官となった男はここぞとばかりに
前例とは別の錬金術師の要請を受け、一人の兵士の虐待に薬物実験を取り入れた。
調べた限り被検体の提供は慣例ではなく、
かつて『焔の錬金術師』『イシュバールの英雄』と謳われたロイ・マスタングであることに意味があり、
検体要請には薬物に対し耐性のある兵士という条件の他、書類に残らぬ形で彼が指名され、
表向きは訓練を受けた人間への自白剤の作用と後遺症の有無、有効な使用量の確認であったが、
それらは再三別所にて行われている事は調査済みであったから、まさしくこれは彼を標的にした双方からの虐待なのである。
その薬物を精製している国家錬金術師が錬金術師でありながら軍事に介入し昇進を繰り返していたマスタングを毛嫌いしていた人物であった事も、
ハボックの読みを裏付けている。
二足の草鞋を見事にこなしていた彼の才への嫉妬も絡んでいたのだろうという憶測も容易い。
何にせよ、生き急いだ彼は敵を作り過ぎたのだ。
階級は上でも、中央司令部のエリート相手には気後れするらしい卑小な左官にハボックは表情を変えず、
しかし、有無を言わさぬ押しで実験の立会いを了承させた。
無理ならば今すぐに全容を有りのまま本部に連絡する。
中央にはまだマスタングを支持する者は多いぞと脅しを含めれば覿面だった。
ロイ・マスタングについて、
ハボックがあくまで世間話のノリで『実験に参加した』兵士達に尋ねると、
思わず笑い出してしまいそうな噂話とその他下世話な諸々を語ってくれた。
彼が錬金術で若さと美貌を保っているのだ、と。
初めは彼の童顔を揶揄していただけの噂が、実際に触れると真実味を帯びてしまうらしい。
兵士の一人が『あれは魔女だ』と砕けた調子を潜めて言った。
錬金術師に免疫の無い人間達にとっては得体の知れない存在なのだろう。
自身の内部に吐き出された男達の精子からホムンクルスを作れるのだとか、
そんな御伽噺にもならない噂を半ば信じる者もいた。
本当は天才と賞賛される錬金術師であった彼を恐れているのだろう。
しかし、その手腕を彼自ら封じた上に被検体という立場が
兵士達の欲を暴走させている。
全てを受け入れて嬲られるが儘の彼であるが、
叩き落しても叩き落しても奈落の底へと落ち切ることは恐らく無い。
時を止めてしまった彼の不変に永遠の享楽を見出し、陥落のゲームに嵌るのだ。