以前ハボックは一度だけ、禿面の将官が去った直後の執務室に脚を踏み入れた事があった。

その時は運悪く諌め役の上司や同僚が席を外していた為に、
いつまでもシャワールームへと直行しない彼が心配になったのだ。



扉からこっそり覗きこんだ時、崩された被服もそのままにソファで身を縮めて横たわる彼を発見し、
その小さな姿からは普段のふてぶてしさが想像できず、
すぐに見てはいけないものだったのだと思い至ったが、
さりとて知ってしまった以上そのままにしておけず、
極力音を立てずに入室し扉を閉めて彼の側へと歩み寄った。


中佐、と控えめな声音で彼を呼んだが返事は無かった。


酷い顔色であったし、そこかしこに飛び散った醜悪な物が殊更その容貌を損ねていたが、
何よりも気を失っている彼の浮腫んだ目元に残る涙の跡にハボックは戦慄を覚えたのだ。




腹の立つくらいに自信家で有能な男のその内側に他者が踏み荒せる自由領域が存在していたこと。
そこにあの禿面上司の侵入を許していたこと。



その頃のハボックにとって『イシュバールの英雄』ロイ・マスタングは
鋭利な爪を隠したそのスタイルも含めて生きながらの伝説であったから、
その概念が崩されたことに激しく混乱した。



まるで只の人間ではないか。



確かに落胆したのだ。


−−−己の付き従う人間は超人であってほしかった−−−


青臭い理想の塊であった。



その後、出張から戻った上司のホークアイ中尉にぼんやりと惨状を眺める姿を発見され、
短く雑用と退室を言い渡されて、
誤解などあろう筈も無いのに件の中将の仕業なのだと言い募ろうとしたハボックは
聞いたこともない冷たい声と同等の表情で『出て行きなさい』と切り捨てられた。


俗に呼ばれる『マスタング組』の要であった優秀な彼女が
ハボックの異変に気付かぬ訳が無い。


その瞬間にマスタングの部下としては相応しくないと判断された筈である。


命ぜられたままハボックが凄まじい数の資料を書庫で漁っている間にどのような経緯があったのかは分からないが、


一時間半後にファイルを抱えて司令室に戻ってきた時には同僚の姿もあって、
マスタングも、雑用を命じた上司も何もかもが元通りになっていた。
まるで狐に摘まれた気分になったが、それでも数刻前に見たものは事実であったし、
それから暫くの間、何らかの辞令が降るかもしれないと緊張して過ごしたのだ。



まるで針のむしろの上で日常を過ごしていたようなものだ。



所詮自分には付いていけない世界だったのだと投げやりになりたくても、心は裏切り焦燥に駆られた。




ホークアイ中尉は己の体たらくをマスタング中佐に報告していないのだろうか。
否、彼女はボスの脚を引っ張る行為には冷徹な裁きを下す人間である。
しかも、引き抜かれて間もない新入りだ。役に立たないと躊躇い無く処分を促しただろう。




悟られぬよう神経を使い平常を装っていたが、胸中は日々鬱屈を抱え込んだ。
この時既にマスタングの瞳の色を知ってしまっていたのだ。
囲う漆黒の檻の扉には初めから鍵など掛かっていなくて、それがまたハボックを不安にさせた。
そこから飛び立ち自由を羽ばたく気など全く無かった魂には解放など恐怖でしかない。



英雄と呼ばれても一人の人間でしかなかったマスタングに失望した事実がただただ虚しい。



そんなもの、少しも大したことでは無かったと、放置されている間に嫌でも気付かされてしまった。
膨らむ不安にその理由を絶え間なく思考し、唇を噛み締める夜を過ごして、ある日ふっと耐え切れなくなった。



『もう今更自由になんかなりたくないです』



夕日の差す執務室で、
デスクに着きながら仕事を片付けるでもなくペンを弄り回している様子を見下ろしていたハボックの呟きに
顔を上げたマスタングの指先からコトリとペンが落ちた。



己を見上げる幼げな眼差しに涙腺が緩み、溢れそうな雫に歯を食い縛って堪えなければならなかった。



ハボックは誰にも縛られぬ生き方をしてきたが、それは同時に孤独な人生でもあった。
趣向は著しく偏り、普通の暮らしにはいつだって馴染めない。
スクールでも厳格な教師にぶち当たってきたハボックにとって、
足並みを強要される集団生活は苦痛以外の何物でもなかった。
だが、両親の期待に沿うことを望み、学業は最低限の嗜みであることを理解していたハボックは
窮屈な環境から逃げ出す事無く、堂々と就職できた訳である。
しかし、能力を存分に生かした華々しい仕事ができると期待して入隊したものの
与えられる仕事は想像よりも遥かに地味で、しかも苦手な書類作成や厳しい規律、安月給などいらないオプションばかりが付随し
若いながらに人生に行き詰まりを感じていた時、
何故か人使いの荒さで有名な司令部中枢、通称マスタング組への転属が言い渡されたのである。
当時の上司とは折り合いが悪く、それが影響したのかとその時ハボックは溜息を吐いた。
きっと、酷い内容の紹介が間にあり、超有名人である『イシュバールの英雄』には初めから見下され、
またくだらない仕事ばかりを押し付けられるのだと泣きたい気持ちで司令部に赴いた初日に
いきなり言い渡された仕事は夜勤明けの休憩を取ったまま戻ってこないロイ・マスタング中佐の捜索と確保であった。
新人係でもあったホークアイ当時少尉に『捜索・確保』とはっきりそのまま言われたのである。
その罪人か珍獣のような扱いにハボックが目を丸くしても無理からぬ事。
しかも、『急務よ。どうしても起きなかったら、私が本気で撃ちにゆくと伝えて。今日もとても忙しいから、お願いね』と、恐ろしい言葉を。
一応目ぼしい潜伏場所(主に仮眠という名目の駄眠に使用されている)のリストは渡されたが、
そこにいなければ後は『勘』で探せとあっさり告げた彼女に置き去りにされたのである。
窮屈な暮らしが苦手なハボックであったが、

これはゆるすぎるだろう、と。

そしてその常軌を逸したゆるさに付き合わねばならない先を思い、それまでの悩みの種がいかに常識の範囲内であったかを悟ったのであった。
そして、慣れぬ施設内の探索であるにも関わらず、リストにあるポイントからポイントへの移動中に
『いるかもしれない』という気がして、戻って来るのも面倒だからという不精も手伝い扉を開けた階段下の狭い倉庫内にて
何故かモップの柄を抱えて眠りこけるロイ・マスタングを発見したのであった。
後に担当上司が言うところの、ものの十五分の快挙…であったらしい。
が、その時のハボックには中佐地位にある者が、階段下の倉庫で用具の隙間に身を捻じ込み、尚且つ安眠を貪っている事実についてゆけず、
一頻り寝顔の微笑ましさに笑ったあと、

『何やってんですか、アンタは!!!』

勢いのまま怒鳴ってしまっていた。
はっと己の失態に気付くも、目の前の上司はむぅだのうにぅだのとむずがるばかりで起きる気配も無く、
幸いな事に駆けつけるギャラリーもいなかった為にとっととその場を去ろうと肩を揺すってみたが
身も心も睡魔に売り渡しているのか覚醒には至らず。
その時のハボックには俄かに信じられなかったものの、担当上司に教えられた言葉を呆れ声で試してみた。

『何!?何故それを早く言わない!』

果たして嘘の様な速さで飛び起きたマスタングは低い天井に勢い良く頭をぶつけ蹲るといった動作をし、

『彼女は冗談でも撃ちかねないんだぞ。本気ということは確実に発砲し、且つ命中させるということだ!』

頂頭部を抱えた腕の隙間から恨みがましい涙目でハボックを睨みつけつつふらふらと倉庫から這い出した。
そしてよれた制服を整え何事も無かったかのように歩き出したところでふと振り返って。

『何をぼうとしている。貴様も的にされたいのか。…ところでお前は誰だ?』

遅過ぎの感が否めない指摘に、その無防備さに、ハボックの口角がひくりと震えた。

『イシュバールの英雄』は天然ボケを真実地でやる人間だということを知ったのは初対面のこの時であった。
そして、一連の出来事がそのまま職場の空気を象徴していたのだと気付くのもまたすぐの事。

その想定外の雰囲気ははぐれ者のハボックを容易く内包したのである。

それまでの集団生活でハボックがひっそりと堪えねば実現しなかった環境がそこでは当り前に与えられたのだ。
足並みを揃える者達の気持ちがよく理解できた。
それが苦でない者達はこの一人突出することなく紛れる安堵感を得られていたのだと。

やっと自分の居場所を見付けられた−−−。

そう感じて間も無く、姦淫による上司との駆け引きというマスタングの事情を知ったのである。
ただ、それはマスタングが上司を袖にしていると、そんな悪女的なイメージであったから、
酷くもやもやしたものを引き摺りつつも意識を逸らしてこられたのだ。
ハボックにとっての英雄は…しかし、実際には際どく危ない橋を渡っていた。

怯えながらあの中将の醜くかろう陰茎を咥え込んでいたのかもしれない。
悲鳴を封じられた女のように、泣きながら犯されていたのかもしれないのだ。

眼も当てられぬと逃げ出すか?…散々考えて出した答えは否だ。

もう自分はこの場所を手放せない。
この男から離れたくない。


あの日の鮮烈な瞳の彩に見放されたくない…。



『何があっても堪えます。対処の仕方も覚えますから、余所に飛ばすのだけは勘弁して下さい』



頭を下げると同時に涙が目元を離れる感覚があって、それからはもう我慢のしようが無かった。