部下の只ならぬ様子に虚を突かれた格好のマスタングであったが。
直ぐに普段とは多少趣の違うものの至極落ち着いた口調をとりもどし、
『お前が何に対しての処分を恐れているのか、思い当たる理由があり過ぎて搾れんが…』
と相変わらずの軽口を含ませた前振りの後に『まずは顔を上げろと』と対話の姿勢を促した。

涙塗れの情けない顔を見られる事には抵抗があったが従わない訳にはゆかずそろりと上半身を正した。

ハボックの様子を暫く眺めていたマスタングがふっと噴出して胸を小刻みに震わせる。

『何て酷さだ。男の泣きっツラというものは本当に惨めだな』

呆気に取られた次の瞬間的にむかっときてぐいと涙を拭った。

酷いのはマスタングの言い草だ。
こんなに真剣なのに。こんなシリアスな場面の空気感を読めないなんて!


笑いを耐えようと引き結んだ唇で堪えている上司にそれまでのしおらしさは吹き飛んで、縋るみたいに酌量を求めた己に後悔する。
そんな思考の真っ最中であったハボックはマスタングの変化に気付かなかった。


『しかし、これであいこだ』


故に言われた意味もわからず、はっ?とただ眉を潜めただけだった。


『見たんだろう?お前も。あれは私の失態だ。お前が気に病む必要は無い』


大きな革の背凭れに身を預けてリラックスした様子は、とても言葉の内容にそぐわぬ態度で、余計に頭の回転を鈍らせる。


『驚くななんて言わんさ。中尉は特別なんだ。…長く側にいるからな』


そこまで言わせて、漸く思考は覚醒した。


『しかしまぁ、これが実情でもある訳だ。遠慮せずとも転属願いを受け付けるぞ。
お前の能力に見合った職場を紹介してやる。もっと快適な環境をな』


談笑でもする気軽さで告げられた内容に、逆転を繰り返し乱れた思考でこの男にとって自分はその程度なのだろうかと息を呑んだ。
それでは、ここを拠り代とした己の土台が揺らいでしまう。


『中佐にとって俺は…』


息苦しかった。


『俺は何ですか?』


何て不躾な質問だと自覚はあったが、
不安が止むことはなく、まるで詰問でもしているようで、
それもまた本末転倒だと思った。


混乱が混乱を呼ぶ悪循環。


『何で俺、此処に転属されたんでしょう?』


自問している気分にもなり、そのまま殻に閉じ篭ってやり過ごしてしまいたくなった。
じっと見つめる、それだけの黒い瞳からも。



『ハボック少尉』


静かな声が随分と厳かなものに聞こえた。


『私は私にとって必要なものしか手元に置かない主義だ』


−−お前が自身の存在をどう位置づけていようと、それは関係の無い事−−




『お前次第だ。…ついて来るか?』




マスタングの音にせぬ意図を読み取った瞬間に、腹の底を突き上げる何かがハボックの内側を満たした。


自分は望まれているのか。


黒の球体には蛍光灯を背後にしたハボックが閉じ込められていた。



『 Yes …、Yes ser! 』



ぎっと伸ばした指先で敬礼をしたハボックは、後に命令でなく問い掛けだった言葉の本当の意味を知ることになる。




マスタングが当時のハボックのどんな資料、或いは勤務の姿勢を見て引き抜いたのかは分からないが、
人選の勘に優れていた彼には必要不可欠な人材であったのだと思う。
しかし、その後東方から中央への栄転の際ハボックを含めた面々に対して彼は有無を言わさずに『付いてこい』と言ったのだ。


その強引さがあの時の問い掛けには無かった。

それがきっと彼の弱さだったのだ。



自身の選んだ道に後悔は無くても、傷付き、涙は流れてしまう。
ハボックのそれまで正常に培ってきた感性もまた歪ませねばならないだろう。



−−『白も黒も無く、全てを、だ』−−



まだ、理想を追いかける若者であったハボックをその『黒』に引きずり込む罪に彼は躊躇っていたのだと思う。


もしかしたら、あの陰鬱な場面を目撃したハボックに去られる事をどこかで恐れていたのかもしれない。

肉体を蹂躙させてでも突き進む遣り方を心底望んでいる訳ではなかっただろう。
彼が口で言うほど、或いは周囲の噂で聞くほどに奔放な生き方はしていないのではと側に居て気付いたし、
寧ろ面倒な位の貞操観念を抱いているのだと、簡素な私生活から窺い知った。


『<する>のは嫌いだ。みんな必死になる。…女性には笑っていて欲しいのに』


しょげながら零す、まるで子供みたいな彼に女性のホークアイ中尉は呆れ顔だった。
『では、誘われても断ればいいでしょう』
『一応受け流そうと努力はしているのだよ。だがホテルのキーを差し出されたら断れないよ。淋しい思いはさせたくない…』
『奉仕の精神だけで付き合うのでしたら、やめるべきです。貴方はご自分が綺麗でありたいだけなのですから』
『中尉…』
何ゆえそんな会話の流れになったのか。キレ気味の中尉に、まずいことを話したみたいな声で焦る彼。
うっかり立ち聞きしてしまったハボックもまた脱力したものだ。



そんな人間であったから…
これは迎えるべくして迎えた現実なのかもしれない。



ハボックは溜息を吐いた。


暖炉の火で室内の気温はそれなりに保たれているし、
マスタングの座り込んだ床には毛皮やら毛布やらが無造作に敷かれているから
半裸の状態で体調を崩す事はないかもしれない。


マスタングの濁った瞳は向かいの壁を見上げ、すぐに俯く。その動作を繰り返している。


監視役の兵士に確認したところ、どうやら彼の瞳には今は亡きマース・ヒューズの姿があるらしい。
薬物による幻覚症状であった。
この数日、生前は親友として彼を支えてきた男の目の前で延々と輪姦され続けていたことになる。
しかも、口の軽い兵士からは様々な良くない薬も併用されてきたと聞く。
その乱れぶりは凄まじく、箍が外れる直前には見るな見るなと泣きじゃくり、
その姿がまた堪らないのだと兵士は肩を窄めて哂った。

その様な状態に陥ろうとも理性のカケラが消失することはなく、
看破の証明と定められた『失踪した錬金術師エドワード・エルリックの行方』と、
『過去に彼が<個人的な>取引を行った上司の実名』が吐露される事はない。
その強情さも長く遊べる玩具として重宝されているのだ。
前者に関して真実彼が知る由も無く、最後の最後にあの子供の力になってやれなかったと今でも彼が残念がっている事をハボックは知っている。
しかし身体で上司と通じていた彼の行為は、当時自身が後見人を担っていた幼い錬金術師をも誑かしたという噂を呼んで、
彼を良く思わない者達の間では余りに有名な醜聞であったから、今だ何処かにかの錬金術師を匿っているのだとそう考える輩もいるのだ。
後者の『過去に彼が<個人的な>取引を行った上司の実名』に関しては、
軍内部の粛清の判断材料にという建前だが単に彼の恥部を晒したいだけなのだろう。


ハボックが思考を巡らせている間も、やれこの反応が好いだのあそこが弱いだのと口を滑らせ続ける兵士に、
軽く拳銃を引き抜いてやりたくなったがそこは耐えて口の端を上げるに留める。
大人になったものだと皮肉に思う。
マスタングの背後を守る過程であらゆる心の機敏を捨ててきたのだ。


俺はアンタに見合う駒になりましたよ。大佐。
今のアンタを見たってちっとも揺れやしない。


プカリと煙草の煙を吹かしてマスタングの前に膝をつき、しっかりと視線を合わせる。

そこには矢張り囚われたハボック自身がいた。



『わかりませんか?アンタが昔飼ってた狗ですよ。マスタング大佐』



殊更優しく囁いてみたが、しかし闇色の隻眼はすぐに下を向いて逃れてしまう。

追った視線の先に白すぎる内股が飛び込んでハボックは碧眼をすっと細めた。
三十路をとうに越えた男の物とは思えない張りがあり、その見た目の毒を孕んだ滑らかさに、
兵士達のオカルティックな噂話が回想された。


若返り、魔女、ホムンクルス…


寧ろこの男こそが人造人間なのではとハボックは口を歪める。
青白いおもては自然の摂理で生まれたにしては混じり物が無さ過ぎた。
欲を刺激する気配が目に見えぬ触手の如くハボックを絡め捕ろうとしているように感じられ、
少し乾いた加減で…もう一度『大佐』と囁いた。



無駄ですよ、と忠告する兵士の声が煩わしい。



彼に対し暴走した者達は『これ』に抗えなかったのだろうと、
今となってはどうでもいい心理にハボックは行き着いた。





そろそろ、実験を再開します。





少尉も参加されますかとニヤついた声調で誘われて、
制御の意思も起きず射殺する視線を番兵に向けた。
調子に乗りすぎた哀れな兵士は竦みあがって口を閉じる。
しかし、気安さを前面に出して軽口を引き出したハボックのせいでもあるので、
その凶悪な視線はすぐに元上司に戻した。

少し汚れの目立つ黒髪を撫で回し梳いてやりたい衝動に駆られるが。

『楽しそうだが、やめとくわ。こんなんでも元上司なんでね』

凡庸とした表情を浮かべて笑えば、兵士はあからさまにほっとして敬礼する。
そうそう、無駄なことは言わないように。と、胸中でぼやきつつハボックは部屋を後にした。




これからまた長く辛い性の拷問が始るのだろう。



けど、ご自分で撒いた種ですからね。
今はせいぜい甘んじて下さい。



実験の行われている建物は北方司令部から程近くにある元薬品工場で、
離れには実験動物の隔離施設があった。


マスタングは今そこに繋がれている。


この薬物実験が…陵辱は元より別で…事前の詳細説明がなされた上で被検体の了承を得て行われているものなのか、
概要のみの簡単な書類に殴り書きされたマスタングのサインを確認しただけのハボックは知る由も無い。


取り敢えずは今だ縁が続いてチームを組んでいるホークアイ中尉に報告しておくかと思うが、
マスタングの覚醒を待つだけの彼女はどうせ動きはしないだろう。
少し疲れた色を表情に乗せ、ホテルへと走る軍用車の窓からどんよりとした空を眺めた。