「あの人が居ない、それだけでこの世界は不完全だ」


弱々しい、掠れた声が静かに室内を満たした。
ベッドに横たわる、痩せ衰えた弟にエドワードは目を向ける。
ヘイゼルの瞳はじっと天井の装飾材を見つめている。否、それすら突き抜けて、ずっと遠い世界を夢見ているのだろう。


「それだけで、この世界は、劣る」

「アル」


聞き咎めて、言葉を遮った。エドワードの中に世界の優劣などない。…そんな選別は許されぬことだ。
しかし、アルフォンスの声色に肉体の疲弊以外の淀みはない。凛と目に見えぬ張りすら感じられた。



「気付いている筈だよ。兄さん」



膝に両肘を乗せて前に屈んだ姿勢で、病床に伏した弟を睨みつける。朦朧としていた意識を久しぶりに快復させたアルフォンスは言葉を濁すことをしなかった。これまで、思っても口にはできなかったことなのだろう。死を予感してたがが外れているのかもしれない。
どうしようもないとわかりきったことで、アルフォンスはエドワードを責める様になった。

身体の中に毒素が溜まって行く奇病にアルフォンスは侵されていた。ここ一ヶ月で毒は脳に回り、記憶は混乱して精神の後退すらみられることもある。治療法は見付かっていない。医者はただ栄養のあるものをと、それだけだった。
たった三ヶ月で、自力では起き上がれないほどに病は進行してしまった。あっと言うまであった。


「あの人に会いたいよ」


嗚咽が混じり始める。


「大佐に会いたいよぉ。兄さん…」


それが精神退行の合図だった。昔の、懐かしきアメストリスの大地を二人で旅していた頃に心が戻ってしまうのだ。鎧であった忌むべき筈の時代へと。時には若い肉体でエドワードを探し、只一人駈けずり回った時分の表情を覗かせることもある。どちらにも共通しているのは、大佐と呼称されていたある男の存在が、足を伸ばせば会える場所に常に在ったということだった。


「ねぇ、今度はいつ東部に帰れるかな…。御免ね。おかしいよね、でも帰りたくて溜まらないんだよ。どうしてこんなに身体がおかしいんだろう。疲れることなんてない筈なのに…」

混濁の影響なのか、その優しい目尻から零れる涙に気付かぬ様子で弟はくたびれた溜息を一つ落とす。
もう泣くことも寝ることもできぬ呪われた体ではないのに。当時の不自由に表情を曇らせる弟がエドワードは不憫でならなかった。せっかく、せっかく肉体を取り戻して人の一生を幸福に送れる筈だったのに、たった十五年で手にしたものは傷み崩れ去ろうとしているのだ。何故こんなことになってしまうのだ。何故弟なのだ。何故いつも自分ではなく…。
時に思うのだ。弟の幸運を己が吸い取り、使い果たしてしまっているのではないだろうかと。

アルフォンスが男を恋い慕っていたことに、そして今でも思いの丈は変わらぬことを知ったのは弟が成人して幾ばかりか経ってからだった。エドワードが妻を娶ると決めた時に、それを知らされた弟は「おめでとう」と言って俯いた。落胆しているその様子に、不安を覚えたエドワードはあれこれと考えたのだ。妻となる女に兄を取られた心持になったのか、それとも実は弟も女を好いていて、故に素直に喜べぬのかと。

『大佐のこと、本当にもう吹っ切れたんだね。あの人は今でも独人切りでいると思うんだけど…仕方ないね』

俯きながらぽつりと漏れた弟の台詞に弾き出した答えのどちらも的外れであったことを知り、そして答えの突拍子の無さにエドワードは大層驚いたものだ。何故そこで今更あの男が出てくるのか。犬猿の仲とまで評されていた、けして穏やかではなかった男との関係をまざまざと思い起こす兄に、背の高い弟は見下ろしつつ視線を向けて寂しそうに笑った。

『じゃあ僕が大佐のこと好きでも、兄さん、怒らないでね』

爆弾を投下された様なものだ。
放心気味にいつからと問えば、

『昔からだよ。あの人に初めて会った時からずっと。初めは兄さんを受け入れてくれる優しい人だから好きなんだと思ったんだけど、全然違う。ずっと兄さんと大佐を天秤に掛けてた。でも兄さんは苦しい旅のパートナーだったから、恋沙汰で拗れてしまうのは嫌だったんだ。だから黙ってた。あの頃も…今までも』

じれったくて時々けしかけてたりしてたけど、本当はずっと兄さんと大佐の仲に心からの応援はできなかったんだ。
今更なんだけれど…。

羨ましい位に体格の抜きんでた弟が、その時は一回りも二回りも小さく見えた。
それ以来弟の口から男のことが語られることはなかったが、ふと気付けば遠くの空を見つめる弟の様子にエドワードはえもいわれぬ苦さを覚えた。それが、諦めの悪い弟への気遣いなのか、それとも弟の心を奪った男への嫌悪なのかはわからない。それとも、かの男を愛し続けられる弟の純粋な魂への嫉妬であったのか。

幼かった頃も。成人し、中年の仲間入りをした今までも、そんな素振りは少しも見せなかった弟の強固な精神は、病によって確実に砕かれていっている。
見た目も人格も人好きされた弟がこの歳まで一人身だったのは、最果てに残した存在に操を立てていたからなのかもしれない。…そう考えてそれは余りに極端だと思い直した。
二度と会えない男に大事な弟の家庭を持つ喜びが奪われているなんてありえないことだ。考えるだに悪寒が走る。
エドワードは弟が驚かないように細く骨の目立った手を救い上げ、両手で握り締めた。


「お前はもう、肉体を取り戻したんだよ、アル。ほら、俺が手ぇ握ってるのわかるだろ?」

「ああ、本当だ。うん。そうだ、僕は兄さんのお陰で人の身体に戻ることができたんだ。うん」


何度も確かめるよう、アルフォンスは頷いて微笑んだ。エドワードと視線を合わせるために顔を向けることすら辛そうで、すぐに握った掌を毛布の下に隠した。先程と同じように天井へと視界を戻したアルフォンスは呟くように言う。


「死んだら、魂は向こう側の人達と同じ場所に行き着くのかな…」


だったら、良いな。


とても奇麗な笑顔だ。穏やかで、優しい夢を見ているような。
少し前まではそんな泣き言を聞く度に弟を叱り元気付けていたが、最早そんな気力も奮い立ちはしない。弟が誰よりも自分の側にいて心を理解していたことをエドワードは良く知っている。


どうして、離れてしまった?
どうして、彼を一人にしてしまった?
どうして、『世界』を選んでしまった?

何故、想いも絆も放り出して『正しさ』を選んでしまったのだ。置き去りにされた痛みも時が解決してくれると思っていたのか。


ずっと心の奥底に溜め込んでいた疑念を、アルフォンスはここにきて遂に暴いてしまったのだ。
この地球と呼ばれる大地で生きて行こうと決めてから、十三年も経つと言うのに…。
エドワードは三十二歳に、アルフォンスは三十一歳になっていた。話の渦中に横たわる男と最後に話した時の彼の年齢に、弟は追いついたのだなとエドワードは頭の隅で考える。尤も記憶に鮮明に残る男の肖像は実年齢より随分と若いものだが。男は威厳を醸し出すには心許ない童顔を気にしていたことを思考の更に片隅でなぞった。

耐え切れず、だったら付いて来なければ良かっただろうと怒鳴りつけたの半月程前のことだ。
弟のアルフォンスが自らこの世界へとやってきたのだ。エドワードの側にいたいからと。同じものを見て成長したいからと。なのに何故、今頃になってそんなことを言う?そう捲くし立てていた。殴りつかんばかりの勢いで、弟の胸倉を掴み上げていた。
弟は冷静にエドワードを見ていた。僕は鏡みたいなものだろ?兄さん?と。弟の嫌な一面だった。一分の隙もなく冷酷ですらあるその表情。その瞳…。


己の激昂に真実を突き付けられて一気に身体から力が抜けたことを、エドワードは苦い記憶として心に記している。


「エド…」


女の呼び声に、疲れた仕草でゆるりと顔を向けると、妻と娘が控えめに放った扉の向こうからこちらを伺い見ていた。八年前にエドワードの子を身篭り夫婦の契りを交わしたノーアと、彼女とエドワードの色素を受け継いで薄い褐色の肌にブラウンの髪と黒い瞳で生まれてきたアリーだ。
恋仲だったノーアが妊娠していると知った時にエドワードは世界を巡る旅を止め、ドイツの田舎町に一軒家を借りて定住する事に決めた。暫くは一人で旅を続けていたアルフォンスも兄さんがいないとつまらないなどと言って居候を決め込み今に至っている。何年間も、穏やかに幸福に時は流れていた。
不安気に見つめる家族に、帰ったのかと表向きに頬を緩ませた。市場に買い物に出ていた家族の帰宅に気付かなかった。もしかしたらアルフォンスの漏らした言葉を聞かれてしまったかもしれない。居たたまれず、エドワードは義手の右手を両膝の死角できゅっと握った。


「私はお隣にお洗濯の手伝いをしに行かなければならないから、色々頼みたいんだけど…」

「ああ、今行くよ。アル、薬持ってくるからな。アリー、おいで」

椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩み寄るエドワードに、大人しい娘は口許と目元だけをそっと綻ばせて手を伸ばした。軽々と抱き上げた幼い娘がまた少し重くなったことにエドワードは笑んだ。

美しい妻に、可愛い娘。これ以上の幸福がどこにある。

間違ってはいない。エドワードは捨てた世界にしつこく抱いている思慕を思考から追いやった。
最早アルフォンスのように身軽ではないのだから、尚更引き摺られる訳には行かなかった。
己の父親のように家庭を捨ててなるものか。そんな意地も生じた。エドワードを故郷へ帰す為に父・ホーエンハイムは命をとしたが、そんなことよりも幼い頃のあの時代に母や自分達兄弟の側に居て欲しかったと、そう思うのは止められない。
母の寂しい死さえなければ、自分達は禁忌を犯さなかった。あの時、父が父親らしく家族を支えてくれていたなら…。

エドワードは生身の掌で娘の柔らかな髪をかき混ぜる。
しかし、見上げてくる真っ黒な瞳にかつて自分が散々傷付けた男が重なり、そっと目を逸らした。


昔、まだ娘が五つの頃の出来事だ。
偶には添い寝をと、寝床の中の娘に寄り添っていたエドワードはそのまま寝入ってしまったらしい。娘の尋常でない気配に漸く目覚め、何事かと身を起こしてみれば、シーツの上に座り込んだ娘が声を殺して泣いていたのだ。夜中の静寂に気を使い大声を張り上げることもしない。母がジプシーの血筋であることを疎まれていることも、エドワードがそんな母親を娶って肌の色の違う娘を生ませたからと変人扱いする人間がいることも知っているから、成る丈周囲に迷惑を掛けまいと幼心に枷を掛けてしまっている。どれだけ世間を気にするなと言ったところで、本人は実に気丈に立ち振る舞うものだから、それ以上に言葉は掛けられない。賢くて隙の無い子供だった。

どうしたのかと尋ねれば、娘はただ首を振る。
しかし泣き収まる気配は無く、肩を抱けばびくりと身を竦ませたので、このままにして置くには余りに芳しくない状態だと判断したエドワードはあれこれと宥めすかして漸く事情を聞き出したのだ。
しかし、エドワードは娘の嘆きの理由に愕然とした。
娘は夢を見たのだ。
歳若かい姿のエドワードが見知らぬ男を痛め付けている夢だ。男は黒髪を振り乱して哀願しているのに、エドワードは暴力を止めなかったのだと言う。
それは、つい今しがたまでエドワードが見ていたものと同じ。そして、もっと悪いことに娘が暴力行為と捕らえた光景は、実は惨たらしい強姦の場面だったのだ。ただ、知識のない彼女にはそれが理解できなかっただけで。
娘には人の記憶を読み取る母親と同じ不思議な力が宿っていたのだとエドワードはこの時初めて知り、勘が人より鋭いとは感じていたが、まさか他人の夢を除き見てしまう程だとは思わず、側で寝入ってしまったのは軽率だったと酷く後悔した。
只の夢。忘れるんだ。強く、強く言い聞かせた。父親の真剣な恐ろしくすらある表情に娘はただ頷いて身を強張らせていた。

それ以来、娘と同じベッドに横たわることはしていない。添い寝も座ったまま彼女の頭を撫でて終えている。

生まれ持った能力と、あの悪夢の中での父親の行為が何であったのかを知った時、娘は己をどう見るのだろうと。エドワードは時々ふと考えることがあった。不思議と、恐ろしくは無かった。そうなったらそうなったで、身の振り方は娘に委ねれば良い。…そんな思考に行き着くのは身勝手なことだろうか。


妊娠に付随した婚姻と、娘との関係の行く末の曖昧な思想は類似している。
気のままに流されて、好い加減なものだ。
一つ所に留まる道を選んだことだって、持つべき家庭を顧みてのことばかりでも無かったと今ならばわかる。
平たく言えば、世界を巡る旅にも、散りばめられた悪意を排除するという大層な行為にも、危険と隣り合わせのスリルにも興味を持てなくなっていたのだ。

『この世界は劣る』

弟の言葉は実に的確であった。

エドワードが自嘲の笑みを漏らすと、腕の中の娘は何か面白いものでも見つけたのかと父親の視線を追った。

「ファーティ(お父さん)、マンマ(お母さん)の背中に何かあるの?」

「別に?」

背後のやり取りに気付いた妻が少し唇を尖らせて振り向いた。

「何話てるの?二人とも。エド、お小遣いならあげないわよ?」

「ありゃ、もう感付かれちまったのか。どうやって強請ろうか一生懸命考えてたってのに」

夫の誤魔化しに勘の良い妻は気付いているのかどうか。こんなことを一生繰り返して行くのだろうと思うと遣り切れなくなる。

「良い作戦が思いついたから笑ったのね、ファーティ。でも残念。マンマは警戒しちゃったわ」

娘がころころと笑った。


それでも生まれた歪は隠さねばならないのだ。

エドワードも、その妻と娘も、アルフォンスの齎す嵐に崩れまいと懸命に耐えていた。