あの料理人を此処に置いてはおけぬ。
じわじわと、毛穴という毛穴から噴出する怒気を止めようがなかった。
びゅうと吹き抜けた一陣の風に互いの肉体を取り巻く闘気が更に煽られ夜空を舐める大火の如く膨れ上がる。
弟を筆頭にこの船の連中はサンジという果実が熟れるのを待っているのだ。
極上の果肉を作り出す為の『手入れ』を入念に行い、育て上げた末には選ばれた者が食す。
その権利がどのような基準で与えられるのか、また其処に料理人の意思が反映されるのかはわからぬが、少なくとも目の前に立ち塞がる弟は海賊王という頂点に君臨した時こそ食むに相応しいと思い込んでいるのだ。
そして、その頃には料理人の肉が更に深みを増し、えもいわれぬ旨みを醸し出すのだと。
エースですら…。
料理人に望まれ果肉を分け入る事を許されたエースすらもその為の栄養剤なのだ。
この密通に何故邪魔が入らぬのか不思議であったが、認識は他の三人にも共通するのかもしれない。
漸く何時かの痴漢騒ぎで女共が平然と話題にできた理由が明らかになったと言えるのではないか。悪い虫に齧られた怒りよりも興味が先立ったのは不埒者も肥料となってくれると考察した上での態度であったのだ。

もしかしたら、この歪みの元は船長である弟やもしれぬ。
昔から無茶な要求を口にする事の多い弟ではあった。しかし、よもや此処まで己と懸け離れているとは…。

初めて、弟に見初められた料理人を哀れに感じた。

この船は温室なのだ。

たった一つの果実を、四人の男女が念入りに育てあげている…。

今戦えば、この弟を潰しておけるだろう。
まだ、力の差は、ある。

海賊王になるのは白髭だ。ルフィ。

未来を否定された弟の眼光が矢の如く兄の瞳孔を貫いた時、兄弟の対峙の始まりと同じ唐突さで言葉が場を裂いた。

エース、ルフィ

何時からそうしていたのか、五分程開いた倉庫の扉の枠に寄りかかる姿勢で寝癖に髪を乱した料理人がメインデッキに立つエースを、続いて船首甲板に立つルフィを順に睨み付けた。
てめぇら化けモンなんだからこんな狭い船で兄弟喧嘩すんじゃねぇ。可哀相だろうが。
メリーが、と言葉を結び欠伸を一つ漏らした料理人は、…エースの側にその気は全くなかったのだが…安眠を妨害されたようで酷く不機嫌な表情をしていた。しかも浮腫んで一重の瞼が更に厚ぼったく見える。
この一連の出来事のどこからを鑑賞していたのかはわからぬが、料理人の表情に薄暗さは見当たらなかった。

『俺が喰う時は最高の身体になってんだろうしな』

弟の最後の言葉は聞かなかったのだろう。
エースはそう楽観視することにした。
確認などせずとも、そうあって欲しかったのだ。
サンジィ、ムカついたら腹減っちまった。何か作ってくれよ。
ああ?てめぇにゃあ見張りの夜食作ってやっただろうが。朝食まで我慢しろ。
いーやーだー!腹減ったぁ!エースのせいで腹減ったあ!!
格納庫として使用されている…先程までエースと料理人が愛し合っていた…船首楼の上でどんどんと飛び跳ねる弟に、わ、馬鹿!と料理人が慌てた。レディ達が起きちまうじゃねぇかッと控えめに叱り付けしょうがねぇなぁと渋々金色の頭髪を掻き乱した。
あんたのせいだぞ。
据わった眼つきで睨まれエースは肩を竦めた。
喰っていくか?
僅かながらの甘えと期待の滲んだ声で誘われたが、情けないことにとてもそんな気分になれず。
いや、もう行かなきゃならないから。
自嘲の笑みをへらりと零した。
置いて行きたくはなくても、そうせざるをえないのだ。今は。
連れてはゆけぬのだから。
珍しくエースの内側を虚無が襲い、慣れぬ感覚に吐息を吐いた。
料理人が驚き俯いたエースの顔色を伺う。
どうかしたか?
覗き込む恋人の心配げな様子に、エースは固まりそうだった表情を薄く緩めた。月明かりに照らされた容貌は寝不足の不調を露にしていても矢張り美しい。
馬鹿共め。
エースは心の裡で彼を取り巻く者達に吐き捨てる。
今この瞬間の彼と未来とにどれ程の差が生じるというのだ。
確かに散々解されてきた肉は娼婦の蜜壷をも凌ぐ快楽をくれたが、例え手付かずの青い果実であったとしても愛して止まなかっただろう。硬かろうが苦かろうが、そんなことで想いがくすむ筈も無い。
この船の連中がどのような経緯でそんな巫山戯た思想に辿り着いたかは知らぬ。
船乗りの狭い世界が独自の風習を生み出す事など良くあることだ。多くは長い歴史の裡に培われてゆくものではあるが、例外も存在するのだろう。だが誰に助けを求められているでもない部外者のエースにその謎を解きほぐす機会が与えられる筈も無い。
何よりも。
恐らくは料理人とて今だ陰茎での繋がり以外ならば仲間達に許しているのだと思う。
交わりの間隔がどれだけ空こうとも固まる気配の無い孔からその事情を推測することは難くない。何故最終的な繋がりは為されておらぬのと考えるのかは…確証がある訳でもないから想像の域に留まるのだが…エースという混じり物が完全に弾かれるその疎外感であろうか。奪ったというのにあの四人が纏う雰囲気、また料理人の様子にも変化は無かった。そして、先程弟は海賊王になってからとそうも言っていたから、それぞれの基準で機が熟すのを待っているのだとも考えられる。どちらにせよ何も変わるものなどないし、連中と料理人が同じ空間に存在するこの船においてはその形が当然なのだろう。初めて身体を繋げた時ですらそれらを歪みだと糾弾しはしなかったし、その後も束縛する言葉を掛けた事はなかったので今更それを禁じる術はなかった。
任務を遂行する身であったから、彼を縛り付ける事にも気が引けた…。それも大きな理由であったが、何より彼の自由を制限することで生まれる歪から彼を守ってやれぬ事がエースの心のしこりであったのだ。料理人はこの船の人間を深く慕い、ギリギリのラインまで受け入れている。それを偶にふらりと訪れるだけの己が塞げば、あの独占欲の塊の様な四人との関係は破綻してしまうやもしれぬ。そしてその時己は遠くの海で何も知らずに過ごしているのだ。
それは、恐ろしいことであった。
もう少し早く若者と出会っていればと妄想するも、それは埒も無いことである。
エースは立ち入ることは許されても歓迎されてはおらぬ。張り詰めた糸は健在しているのだ。
その糸を断ち切る権利は…料理人を残してゆく内は…エースには、無い。
だからよくよく考えてみれば此処で弟を叩き潰すのも、可愛い恋人を路頭に迷わせる訳にはいかないのだから、得策ではなかったのだと考え至った。
料理人の出現は思ったよりも重要な意味合いを持っていたようだ。己や弟とはまた違う、何処か超自然的な勘の働く人間なのかもしれない。
そして、その勘に従うまま無意識に破滅から逃れてこの船のバランスは保たれているのだろう。
糸の中心にいるのはこの若者なのか。
青空とも海原とも付かぬ色合いの無垢な瞳を見つめ、やはり可哀相だとエースは思った。
勝手だろうが、思う分に咎めは無い。

何時か、迎えにくるよ。

去り際に恋人の耳元でそっと囁き、驚いた料理人の幼さを曝け出す唇に更にキスを一つ落としてエースは背中を向けた。
瞬時に沸き立った弟の怒気と恋人の戸惑いを残して去ることに不安は拭えぬが、いつかきっと期は満ちるだろう。
この船上で焼き付ける景色を想う度にエースは強くなる。
海賊なのだ。海と月に愛される恋人を彷彿させる匂いに事欠きはしない。
生きて生きて生き抜いて、何時か。
何時か己も海の人間になれるといい。
逸早く料理人の性質を見抜き陸を離れて生きる決意をした弟に軽い嫉妬を覚えながら、停泊させていたボートに乗移った。




迎えに行く。




悪魔の実の力を活用し高炉にエネルギーを送る。
主の想いの強さが反映したかの如き火炎がエンジン孔から噴出し、碇を上げたボートは凄まじい勢いで羊船を抜き去った。
炎を自在に操るエースの肉体はどんな風力を浴びようと温度を下げることはなく、突き抜ける爽快感だけが身を支配する。

今はまだ陸が恋しい人間だけれど、何時か必ず…。

瞳を閉じて、愛しい面影を想った。
幾重にも重なる鋭い糸で繋がれた男女が欲する者。糸そのものが城壁となり若者を囲って捕らえている。否、中心にいる若者が全ての糸の親なのか。
金色の髪といわず細腕といわず、銀糸を余す事無く肢体に纏いつかせた若者が緩やかに笑いながらエースへと手を伸ばした。
糸を引き千切って欲しいのか。
それともエースをも糸の一部に組み込もうというのか。
ただ、懐深くに根付いた姿は矢張り美しく、瞼の隙間から差し込む光に照らされ幻想的に滲んだ。


遠くの夜空が白み始めていた。