死んで骨だけになったブルックは眠らない。
だから、彼にとって昼夜の違いは明るいか暗いかだけだ。
長いこと廃船に揺られ彷徨っていた深い霧の中ではその差すらも曖昧で時間の概念は失われて久しかった。
影を取り戻し、麦藁海賊団の一味に名を連ね、陽光を物ともせず航海を楽しむ今でも、睡眠という意識の断絶の無い肉体では昨日も今日も連続した時間であり、かつて朝日をどのような心持ちで迎えていたのかも思い出せない。
沈みゆく夕日の侘びしさも、その様に感じるものだという、どこかで読み聞きした感想を反芻しているだけだ。
おはよう。
おやすみ。
それらは大切な言葉であった気がする。
そう記憶していても、人間的な生活サイクルから外れたブルックには今や上滑りする単語でしかない。

「眠れないんですか?」

ダイニングにて。
不眠のブルックの為に温かい紅茶を出してくれたコックのサンジに尋ねた。
もう深夜の二時を回っている。不寝番の狙撃手以外は皆寝静まった時刻だ。

「何か目が冴えちまってな」

家事全般を担う彼は日中目まぐるしく働きながらも、時々こんな風にふらりと起き出してダイニング…正確にはキッチンにやって来た。
少し寝癖の付いた金髪を手櫛で整えながらやってくる彼と顔を合わせる度につい心配で顔色を伺ってしまう。

「でしたら子守唄の出張サービスに伺いましょうか」
「餓鬼かよ俺ぁ。いらねぇよ」

くっと肩で笑うサンジは定番のシャツとライトベージュのコットンパンツという出で立ちに黒スーツの上着を羽織った姿でキッチンカウンターのスツールに腰を降ろした。手には寝酒ではなく、ブルックと同じティーカップを持っている。
紅茶の好みが似通っていることを知ったのは、幽霊島のスリラーバークを後にして直ぐだった。
過酷な戦いを切り抜け打ち解けた麦藁クルーの面々の中で最も親密な空気を感じたのは、意外にも男性蔑視の塊のようなこの金髪碧眼の青年であった。多分、出逢って早々成り行きとはいえ彼の食事を馳走になった事がより距離を縮める切っ掛けだったのだろうとブルックは考えている。兎に角久方ぶりの人間らしい食事であったから、浮かれに浮かれて随分と喰い散らかしてしまったが、皿の上を平らげる度にこの青年は苦笑いを浮かべながら新しい料理を提供してくれた。その表情が…気もそぞろであったブルックにも知れてしまう位に嬉しげだったのだ。そして、宴会好きという一味がブルックの加入を祝した宴を開いた折、一人輪から外れた場所で一人静かにグラスを傾けていた青年に興味を惹かれて話しかけたのが始まりであった。
日中の彼は目まぐるしく働く。
女性を崇め男を罵り、キッチンを中心に彼の動線は船中に張り巡らされ忙しない。
分からないことがあったらサンジに聞けあいつは何でも知ってっからと船長のルフィに言わしめる程に彼は頼りにされているし、その瞬間にも航海士のナミが「サンジくーん」と名を呼び、「はぁーい、ナミさん。御用ですかー?」と取り込んだ洗濯物を抱えながら軽快な返事をしていた位だ。淡いピンクのエプロンで濡れ手を拭きつつカウンターから出てきた彼が小さな船医の話をしゃがみ込んで聞く姿などまるで母親であった。宴会当時はそんな彼の習性など知る由も無かったが、何かといえば口煩くツッコミを入れてきた彼が喧騒から離れて佇む姿は随分意外に感じられたのだ。その夜。宴会の後不寝番に剣士を追い出した青年と二人で様々な話しをした。己が特異な姿に至った過程は既に明かしてあったし、親友である巨大鯨の無事も知れていたので、ブルックは乞われるまま昔の中間達との航海や故郷の話しをした。青年は小さく頷きながら時に笑い、取りとめの無い思い出話を淡々と聞いていた。不思議なもので、ブルックの普段の陽気さもたなりを潜め、実に穏やかな時間を過ごしたのだ。紅茶の好み、茶器の産地から果てはスーツのブランドまで、ゆったりとした会話は話題こそ少ないものの深く有意義なものであった。
馬鹿騒ぎをしない自分などついぞ記憶に無い。
サンジという若者の持つ不思議なまでの夜の雰囲気はブルックを魅了した。

「今夜は冷えるな…」

不意に独り言のような言葉が耳に届き、ブルックは思考の海から顔を覗かせる。
青年の片手が羽織ったスーツの合わせを引き寄せていた。

「そうですね…。骨身に染みます」

微妙なジョークを不完全な形で止めた。
骨だけに…とまでは言わない。そこまで軽口はこの場に相応しくないし、その必要性も感じられない。

「温めてやろうか」

悪戯猫のように上目遣いに見つめる隻眼にブルックは表情の表しようの無いしゃれこうべのおもてで密やかに笑った。

「ええ、お願いします」

歯の間からするりと中身を落としたカップをテーブルに置き、背凭れ椅子を回転させて音も無く歩み寄った青年に向き合う。
こんな隠密を連想させる動きは猫のようだ。しなやかで、無駄が無い。
青年は骨と生地だけの心地悪かろう長い脚の間に立つと左の大腿骨へと横向きに腰掛け、脇から通した腕で肉の無い背中を抱いた。
金髪がふわりと頬を擽るのと同時に彼が顔を寄せた肩に優しい重みが加わり、ほぅと一つ吐息の漏れる気配。
ブルックもまた誘われるように痩せた背中へと両手を回した。

「悪い夢でも見ましたか…?」

閉じられた長い睫に憔悴を見て取り尋ねた。
この青年の弱味を隠す術は、こんな風に間近に表情を伺わねば見破れぬ時がある。あるふとした瞬間…。ひらめきにも似たその一瞬がなければ、ブルックは青年の素を見逃し、青年自身もまた弱さを無き物として変わらぬ日常を繰り返すのだろう。
昨日も今日も区切り無く続くブルックの時間と同じように。
それは、悲しい。
おはようやおやすみが重要性を欠き薄らぐ事態に既に慣れてしまった自分は良いのだ。
けれどこの青年にはどれだけ些細なものであろうとその感情や感性を淘汰してほしくは無かった。
くぐもった声がおずおずと拙く返した。

「手の皮がな、日に焼けてべろべろに捲れてんだ」

少し、スーツの背に力の篭る気配がある。

「体中火傷したみたいに熱くて水溜まりに飛び込みたかったけど、大事な飲み水だからそれもできなくてさ。辛くて、恨めしくて、あいつのせいでって…」

そこで告白は途切れた。
震える肩、そしてダイニングの黄色み掛かった照明で鈍く輝く髪に手を添え緩やかに撫でると、背中できゅうと拳が握られた。

「遠い記憶です。夢ですよ」

わかってると、言葉無く額が強く押し付けられる。
勿論そんなことは彼も承知しているのだ。
かつてこの青年が経験した草木も生えぬ無人島への漂着という遭難の不幸。その事実において重要なのは飢餓ではなく、まだ幼かった彼を救うべく掻き集めた食料を全て与えたと言う海賊、赤脚のゼフの存在であった。子供は飢えに苦しみながら、己の船を襲った男を憎んだ。憎んで憎んで殺してでも生き延びてやろうと刃物を携えた彼の目の当たりにしたものは食料を手放した男が自慢の足を片方喰らい辛うじて命を繋いだ現実であった。
船ごと多くの命を失った事実も、飢えの苦しみも、そして己の手で殺そうとした男に救われ、あまつさえ自らの肉を食らわす原因となったことも…。全てが凄惨を極めていたのだろう。幼子のその後の人生を左右してしまう程に。
彼の中にはその時の不の感情が根深く巣食い、今だこうして安定を欠くのである。
そして、自身の価値を見失う。
ブルックからしてみれば、サンジの搭乗していた船の操縦を停止させ危険な海域に足止めした海賊自身褒められたものではないと思うのだが、その事実関係の意味合いは命を救われたことで一瞬の内に逆転し、結果生きる為に刃物を握り締めた己の浅ましさと、男の自己犠牲の尊さだけが強烈な印象として残って、あたかもそれが全てであったかのように青年の身の内に重く圧し掛かっているのだ。
普段の彼の言動にはそんな陰りは微塵も無いから、一見過去を昇華させ克服しているかに見える。
事実…深夜のダイニングで三度目に顔を逢わせた折にふとした切っ掛けで彼が過去を語るまで、そんな辛酸を舐めたてきた人間だとは思いもしなかったし、そのような想像もつかぬ位に彼は奔放に振舞い、笑い、力強さと優しさでもって他者とのコミュニケーションを成立させていた。膿んだままの傷を抱える人間にありがちな生活力の欠如とは彼は無縁であったのだ。
アンタのことは色々と知っちまってるから…。
そんな前置きで始まった昔語りは彼の昼夜の温度差を納得させる類のものであった。
それらは彼の奔放な気質と相反する強い自制の現われであったのだろう。
それを知ったからといってブルックに傷を癒す手立ては無いし、サンジもそんなものは望んでいないだろうが…。
第一、夜の表情の凪いだ海の如き静けさは側に在って余りに心地が良いのである。
自制うんぬんと読み解くもそれは的外れで、その顔もまたサンジの性質なのかもしれない。
陰陽のどちらがより本質かなど…。
ブルックの骨だけの指が金糸を甘く梳いた。
今はいらぬ追及なのだ。
そう結論付けた後流されるまま思考は移ろいで、こんな時己に骨格を包む筋肉と皮膚があったならこの関係は変わるのだろうかと心がざわめいた。
もしこの身体が完全体で陰茎を有し、人並みの欲望を発露させるのであっても、この若者はこうして身を寄せてくれるだろうか。
こんな時の彼の仕草はまさに“懐く”という表現が相応しく性的な興奮を煽る気配は皆無であるのに、何故か怪しい方向へと思考を転換させてしまった己に苦笑いが漏れる。
勃つ物がなければ煽情されようも無く、事実霧の海域に迷い込んだ船の女を見ても覚めたものであったのに。
こうして触れ合う内に身体が思い出したようだ。

−−−ああ、こんな気持ちになると身体が反応するのだったな。

懐古の念がブルックの神経に影響を齎したのか…。
何も無い筈の“其処”に懐かしい感覚が蘇り、まさかという思いで視線を股間へと落とした。
そして、息を呑む。
其処は緩やかな小山を形成し、明らかな発情を表していたのだ。
一気に頭に血が昇った。

「んあ?何だ!?」

突然強い力で抱き締められ、心地よさに寝入りかけていたサンジの眠気が一瞬にして吹き飛ぶ。
一体何があったのか。その尋常でない様子にタキシードの背中をぱんぱんと叩いた。何よりも締め付ける腕が強すぎて息苦しい。

「どうしたブルック!?おい!」
「何でもありません。何でもないんです…」

そんな筈は無い。
こんなにも震えているではないか。
ブルックの骨だけの身体はその振動をダイレクトに伝えてくるのだ。それを全身で受け止めるサンジはただただ戸惑うばかりだった。
恐ろしい記憶でも呼び覚まされたのだろうか。
それとも寂しい?

「大丈夫…か?」

豊かな頭髪に手を差し入れ、そっと撫でた。ふわふわのアフロまで震えているので、纏わり付かれる手がこそばゆい。

「はい、大丈夫です…っ」

掠れた言葉の最後は噛み締められ、一度途切れた後に再び紡がれた。

「嬉しいんです」

窮屈な姿勢でそれでも懸命にブルックの表情を伺おうとしたが、密接した頚骨にそれを押し留められて諦める。
仕方が無いのでもう一度肩に頬を預け、見られたくないというものを無理に知ろうとは思わないと一人納得した。
それに。
泣いている気がしたのだ。
骸骨に水分がある訳ないのだけれどそれでもサンジにはそう感じられたから、足掻くことは止めて幾万もの剛毛がくるくると犇く頭部に置いた右手と、抱き止める左手だけに宥めたいと思う心を乗せる。後は長身の骸骨に全て預けた。
大丈夫だと、この骸骨が言うのならそれで良いのだ。この男は己のよう捻くれてはいない。
感嘆の理由も聞かぬ。男がそう感じているという事実だけでサンジには充分なのだ。
胸骨の凹凸が苦しいけれど不思議とその痛みすら心地よく感じられてサンジは声も無く笑った。
一方のブルックは舞い上がる己に折り合いを付けられずにいた。
無いものと認識していた男の象徴が再び根付き力を漲らせたのだ。
其処に膨張する筋肉は存在しない。しかし、口に入れた食物が架空の臓器を通り糞尿やガスとして排泄される現象に見られるように、ブルックがそうあるべきと自然に捉えている肉体の機能は復活前と同じく働かせることができるのだと知っている。
それもまたヨミヨミという名の悪魔の実のなせる業なのかもしれない。
本当はわかっていた。
性欲を失くしたのではない。ただ忘れただけなのだと。
眠りを失くしたが故に上滑りする“おはよう”や“おやすみ”と同じように、男根を失くした身に欲望など不要であったし、忘却に何の不自由もなかったのに。
サンジと触れ合い思い出してしまった。
…思い出せたのだ。
その事実は今一条の光明となりブルックを照らしている。
この若者とならば、朝日の清清しさすらも蘇らせることができるかもしれない。
骨は生涯骨のままだろう。
それでも寂しがり屋の己の性質を熟知しているブルックは、より人間らしくありたいと願うのだ。これ以上何一つ失くしたくは無いし、取り戻せるものがあるのなら足掻いて掴み取りたい。
幽鬼の如き姿であろうとも、自分は生きているのだ。
そうだ。
生きているのだ。
だからこそ、こうして抱き締める若者の身体はこんなにも温かい…。
そこで、あ、と声を上げ慌てて痩身を引き離した。

「も、申し訳ありません、冷たかったでしょう。骨の身体なんかで抱きついてしまって…」

冬島が近いのか、今夜は少し冷え込んでいる。五感での感知能力を残しているブルックであるが、それは身体の形成物質には関係の無い能力で、乾燥し切った骨は所詮無機物なのだ。ならばこの室内と同じ温度しか持たぬ筈…。
さぞや冷え冷えとさせてしまったであろうと悔いるブルックにサンジのきょとんとした隻眼が向けられた。
何を言われたかわからぬ…そんな幼い印象の顕在したおもての向けた瞳がふわりと和み。

「そんなことねぇよ。アンタの身体、あったかいぜ?普通の体温と変わんねぇ」

温めてやるつもりだったのに正直驚いたと笑う若者に釣られて、ブルックもまた破顔した。

−−−気付かないだけで、忘れずにいられたものあったのだな。

こんな姿になってから多くのものを見過ごしてきてしまったようだが、それらを発見してゆくのも悪くはないかもしれない。
グランドラインでの航海を終え、親友の待つ東の海へと帰る頃には、この頭髪と共によりかつての己に近付けているだろう。
死ぬまではただカナヅチになるだけのヨミヨミの実に縋り生き延びて本当に良かった。
最早再会への使命感ばかりではなく、こんな姿になっても己は矢張り幸せ者なのだと気付かせてくれた青年の身体をありったけの慈しみを込めていだけば、たおやかなかいなが再び背に回りブルックを優しく包み込んでくれた。
今更ながら若者が脚を跨いで座らずにいてくれたことに感謝せねばなるまい。
折角こうして甘えてくれる若者との触れ合いの時間に性事情を持ち込み気まずくなりたくはないし、ブルックとて股間の膨張は予期せぬ変調であって具体的にどうこうしたいと思い至っている訳でもないのだから、問い質されれば説明に窮してしまうことは目に見えている。
当面の問題はこの暫く治まりそうも無い懐かしい熱を青年に気付かれることなくどう静めるか、だ。
そんな窮地にあって尚心躍らせる己にブルックは呆れた。

いつか、眠るという行為を思い出してみるのも悪くはないかもしれない。
閉じることの叶わぬ両眼を柔らかな金糸の海に埋めると、まるで朝日の如き光輝がブルックの視界に広がった。