ナミは指定されたホテルの一室に居た。
パートナーを組んでいたルフィがヘマをやらかし、彼が汚名挽回のチャンスを与えられている間、人質としてある男の監視下に置かれる為だ。
尻を叩かれたルフィは同じ過ちは犯さない。やればできる男だからナミは現状を恐れてはいなかった。

「まぁ、楽にしていろ。三日の間テメェは此処にいるだけでいい。俺も干渉はしねぇ」

緑の短髪に上半身裸という格好で革張りのソファにふんぞり返る監視役の男の名はゾロ。
掃除人として血生臭い雑務を滞りなくこなす、組織の中でも異端の存在だ。
世界的規模で名を轟かせる顔ぶれが会員として名を連ねる、決して表舞台に登場する事の無い賭博組織にナミとルフィは所属していた。むろん進行役としてだ。駒は生身の人間。彼らは命懸けのゲームを展開し、勝者には莫大な金が、敗者には一生家畜の如く働いても賄えぬ負債が課せられた。参加したゲームからの逃亡は許されない。また返済能力のない敗者の負債金は命で持って贖われる。
ナミとルフィは公平なゲームを進める為の立会人である。
そして掃除人と呼ばれる男はゲームに余計な邪魔が入らぬよう外堀の警護に付き、また逃亡を計るプレイヤー…そこに駒の提供者である後見人も混じっていれば彼らも含めて始末する言わば影の役者である。
決して表立って動く事は無い立場の筈だが、この男に限っては少々事情が違う事をナミは知っている。
生ぬるい金の遣り取りに飽きた権力者が駒であるプレイヤーを提供して進めるゲームの場合、敗北の際に場を力で捻じ伏せようとボディーガードと称して手足れの傭兵や暗殺者を用意してくる事がある。無論立会人とて腕の立つ者ばかりであるが、殺人術に長けた相手をスマートに討ち取る作業は難儀であった。組織の顔である立会人は参加者の前では毅然とあらねばならず、そんな時には強力な武器そして盾と成り得る掃除人の存在が必要不可欠だ。
そういったアクシデントが起きた時にだけ彼は表舞台に現れる。
故に、組織以外の人間が彼と対面する事は死を意味していた。
ナミが男の能力を直に目にする機会はこれまで無かったが、上層部からはズバ抜けた評価をされているし、組織のNO.2でもあるルフィの兄が一目置いているのだから事実なのだろうと受け止めている。
しかし、能力と人格は反比例しているとナミは思った。

「ああ、女にはちっと刺激が強過ぎるか。だが飯はコイツが作るから慣れた方がいい。その方が食事の時間を快適に過ごせる」

何たって元コックだからな。

男は右手に黒革のリードを引っ掛けており、その末端は男の足元で項垂れる人間の首元まで伸びていた。
性別を引き合いに出されたのは、繋がれた人間がシャツを一枚羽織っただけの男性であるが故だろう。
確かに男同士の世界など女のナミが与り知る機会はこれまで無かった。
だが、それが何だと言う。性別を揶揄しているつもりなのか。
くだらない。
それでも哀れみ誘う存在の豪奢な彩色の髪は金目の物に滅法弱いと自覚しているナミの気を惹くのに充分だったし、生来の負けん気から目を逸らすという選択肢は浮かばず、値踏みするような眼差しを青年に向ける結果に落ち着いた。
競りに掛ければ随分の値が付くと瞬時に判断してしまうのはナミならではの感性である。
柔らかそうな金髪は長い前髪が顔を覆っているが、項は綺麗に整えてあり細い首が露出している。
白い肌は病的ですらある。しかし、シャツからスラリと伸びた脚は反して旨みの乗った肉の感触を想像させた。
脂肪分に富んだ女の物とも違うが、男と分類するには雄の要素に乏しい。ある程度の筋肉の付き具合は見て取れるにしても、例えば不適に笑う掃除人の露出した上半身の隆起とは明らかに違う。弾力性のありそうな筋肉を柔らかな肉が薄っすらと覆っている。
細身の輪郭は禁欲的であるが、吸い付きの良さそうな肌をしていると感じるのはその為だろう。

ああ、コレは触られる為にあるんだ。

イメージは唐突に湧いた。
間違いなくソレは今、目の前の屈強な掃除人を楽しませる為に存在しているのだ。

しかし、同時に何かが足りないとも感じる。
これ程の容姿を備えていてもこの青年に最高の金額を付けるには決定的な要素が欠けている。

勿体無いとすら思う。

この時点では何もかもが他人事であり、見知らぬ青年の境遇に憐憫を感じることはない。
それでもナミの性癖とは著しく違えており、嫌悪感がふつりと膨れた。
掃除人の肉体が戦闘用ならば、このペット然とした青年は抱き潰される用途で成形された肉人形だろう。

「吼え癖も無いから安心しろ」

言った端からククっとさも楽しげな笑いを漏らし、男の腕が小さくリードを引く。

「オラ、客人が混乱してるぜ。自分の属性教えてやれ」

青年は命ぜられるがまま、両手を突いて脚を横に崩した姿勢から四つん這いとなり、緩慢な動作で尻を向けてきた。
臀部を辛うじて覆うシャツの裾からは金毛の束が垂れ下がっている。
男にシャツが邪魔だと注意され、白い指がそろそろと布地を引っ張り挙げれば、動物の尻尾を模した物体を生やすソコが露になった。
白い谷間に食い込んだ根元はボリュームのある尾っぽに埋もれて伺う事はできず、直後そんな卑猥な部分に興味をそそられた己にはたと気付いて小さく苛立った。

「女を見るのは久しぶりだろうからな。雌犬の癖に少し興奮するかもしれん。が、充分躾けてあるから粗相もねぇ筈だ」

ナミが僅かでもうろたえれば、この男との立場の格差は著しく広がるだろう。
誰が『成り下がって』やるものか。

「可愛いコね。触り心地も良さそうだわ」

殊更皮肉気な表情で男の台詞に乗ってやったのは、恐らくは束の間崩れた精神のバランスを誤魔化したかったからだろう。
欲求不満に陥った覚えは無い。しかしどこか身体の奥底でざわめくものを感じる。
この異様な空間に怖気付く事無く応えを返す女をどう取ったのか、男は笑い声を噛み締め、さも可笑しいと言わんばかりに勢い良くリードを引いた。
強い力で引き寄せられた青年は、勢いのまま男の膝に縋りつく形となり、二人の距離がぐっと縮まる。
男が凶悪な笑みを浮かべた顔を寄せて青年に何事かを囁いた。
その言葉は酷い罵りだったのかもしれない。

ざわりと。

それまでしおらしく項垂れるだけだった青年の背中から強烈な感情が迸り、威圧感にナミは両眼を大きく見開いた。

色彩が変化し、景色に色が灯る。
突如現れた異空間に迷い込んでしまったかの衝撃に平衡感覚が狂いそうになる。

危うく意識を引き摺られかけながら、ナミは這い蹲った哀れな飼い犬が野生の獣に転じるのを確かに見た。
それも、腹を空かせた状態の最も危険な手負いの獣だ。

怒気、憎悪、そして飽くなき自由への渇望。
それらの感情に支配され相手の咽笛を噛み切る凶行に何の躊躇いも無くなる。
もう数瞬でその時がやってくるだろう。
この青年は間違いなく−−−。



「く…っ、クハ!!!」


ははははは!!!



男は狂ったように哄笑し、大きな掌で青年の頬を張り倒した。

「残念だったなぁ、クソコック!最近はかなりいい線で感情をコントロールできたってのに!!」

そして、絨毯へと無様に叩きつけられた青年の髪を無造作に握り、膝立ちになるまで持ち上げる。

仰け反った首が支える頭部は長い前髪の隙間から初めてその表情をナミに晒した。


ギラリと光を弾く蒼の宝石があった。
大きく見開いたまなこに嵌った碧眼が、縁取る長い睫を瞬かせる事無く強く男を見据えていた。


これか。


ナミは理解する。
青年に足りなかったモノはこの圧倒的な生命の輝きだったのだと。

非の打ち所のない容姿に虚無の魅力を貼り付け完成形となる人間も居る。
その薄ら寒い美を極めれば愛玩用の人形として高い価値を生むだろう。


しかし、この青年に限っては『違う』のだ。


事実その淫猥な肢体はより一層研ぎ澄まされ、触れれば切れると分かっているのに手を伸ばさずには居られない…、そんな欲求を誘発する危険極まりない存在に変貌した。

その劇的な変化に当てられながら、何故こんな場所にと思考が巡る。


何故、この輝きを掃除人ごときが所有していられる…?


少なくともナミを含めた組織の人間はあらゆる情報を上に掌握されているのだから権力者の目に留まらぬ筈が無い。しかし幹部や、頂点の四頭(この組織の中枢は四人の人物が取り仕切っているらしいが経歴等は一切不明である)、若しくは彼らに相当する地位に在る外部の人間が、雑用係である掃除人の持ち物に興味を示したといった噂は聞かない。

青年の価値を弾き出したように、ナミはあらゆる人種の趣向を嗅ぎ分ける能力に優れている。
何が望まれ、どれだけの儲けになるのか。また、己のプラスになるのか…。
昔から要領が良くその手の鼻が利いた。
だから、力を有する者が誘われる匂いを目の前の青年が咽るほどに放っていると感じた己の勘に少しの疑問も抱きはしない。事実これまでの人生はそれを自負できる実績の積み重ねであったのだから。


…男の言っていた躾は、実は『めくらまし』の効果を狙っていたということか。
否、感情をコントロールできていたのにといった罵声にそこまでの計算は感じられない。
それにこの場にはナミという部外者がいる。折角施してきためくらましの煙幕を、態々煽って払う意味など無い筈だ。ならば、男が意識せず加えてきた仕打ちが結果として煙幕の役割を果たしたということか…。


「好い加減無表情なテメェにも飽きてたところだ。暫くの間楽しめそうだぜ」

最もベッドの中じゃあそのポーカーフェイスも役にたってねぇがな。

一通り言葉で嬲り、男は満足気にソファへと身を沈めた。
当初の姿に戻り項垂れた青年の拳が今は硬く握り締められている。

悔しいのだろう。
本当は支配される側でいたくはないのだ。
ちりちりとした激情の名残がいまだ青年の肩を小さく震わせているのをナミは奇妙な感覚でもって眺め、汗ばんだ掌の不快が鈍った神経に伝わる頃、漸く己が欲情していることを悟る。

もし、この青年を自由にできたなら、最高の快楽を得られるだろう。セックスも、加虐や支配といった男性的かつ背徳的な欲求も満たしてくれる筈だ。
何より…、最上級の蜜は優秀な人間を引き寄せるに違いない。



ルフィにはコイツが必要だ。



今回の拘束の切っ掛けを作ったパートナーの存在を唐突に思い出す。
史上最年少で立会人となった少年に、ナミは言葉にするのも馬鹿馬鹿しい位に突飛な可能性を見出しているのだ。

裏社会に生きる女が安穏とした人生を歩んでこれた筈もなく、肉親を惨殺された上に人質を取られて下劣な輩の支配下にあった年月から解放し、その傷を癒してくれたのはルフィだった。
世界の頂点に立つのだと宣言した少年にナミは全てを預ける覚悟をした。

法律という正義が意味を無くす世界は、表層の直ぐ裏側に確実に存在している。

混沌とした暗黒を一人の人間が塗り替えたなら、その変化はどれ程のエネルギーを生み出すのか。
かつての己のように泣かされている人間を救いたいと思っている訳ではない。
ただ、他に生き様のないこの世界が変わるのならその瞬間に立ち会いたい。
それはリアリストのナミが唯一己に許しているロマンチシズムだった。


いつかルフィが頂点に立つ時、傍らにはこの華があるべきだと思った。
今は捻じ伏せられているその首をしゃんと上げ、放たれた輝きを手にしたルフィという人間がその器の大きさを一目で周囲に知らしめる為にもだ。


それに元コックなら、細身の身体に似合わず大層な大喰らいである少年に打って付けだろう。


ナミの鷲色の瞳が獲物を前にした猫の如く細まり艶やかな笑みを刻む。


「何だ、コイツが欲しいかよ」

男はいまだ上機嫌に口角を上げている。
精悍な顔付きにその表情は癇に障るくらい様になっていた。

「欲しいって言ったらくれるの?」

「やんねぇよ」

拒否の瞬間、鋭い眼光にちくりと貫かれるのを感じた。
執着心を隠しもしない。
自分で話題を振ってきた癖に、身勝手で子供みたいな男だ。

兎に角青年が男に大人しく従うその理由が欲しい。
まずはそこからだろう。


「だがまぁ、そんなに気に入ったってんならじゃれる程度は許してやるぜ。せっかくのオフに女を押し付けられるなんてツイてねぇって思ってたが、コイツにゃ良い刺激になるみてーだしな。はは、テメェ女一人の性癖変えちまうかもなぁ、クソコック」

応えを返さぬ青年に、それでも男は楽しげだった。

暢気に言ってろ。
何時か吠え面かかせてやるから。


胸中で毒づきながらも、男の気が変らない内にその機会を得たいものだと思う。

例え僅かな時間であっても青年との接触のチャンスは生かしたい。情報も欲しいし、何よりナミ自身が青年に興味を抱いたのだ。
確実に身の内で育っている人を殺めてしまいそうな程の気迫を押し籠めている美しい入れ物に触れてみたいという欲求のまま、ひとたびその頬に指を滑らせ柔らかな金糸を梳いたなら、激情に任せてその身の隅々までを暴いてしまいそうだ。
最も凄腕の掃除人がそれを許せばの話であるが。

緊張して汗の滲んだ掌を心持ち開いて空気に晒すと、それだけでも随分と心の安定を図れる気がした。



それ程遠くない未来、青年の勧誘に成功するものの流れで組織を追われた掃除人の面倒まで見る羽目になる事を、この時のナミは知る由も無い。



後の人生まで影響を及ぼす濃密な三日間は始まったばかりなのだから。