−−−−−− 「なーにやってんだぁ?お前はぁ」 ぼんやりタイムの気だるい雰囲気が漂う午後の寝室で、二ヶ月前に人んち料理屋の裏口でぶっ倒れていた小僧は、手首から滲み出る血が垂れ落ちないようにティッシュで堰止めている俺の姿に腕を組んで呆れ返っている。 本当に失礼なガキだ。年上の俺に敬語も使いやしねぇし、時には小馬鹿にしやがるし。 「入る時はノックしろよ。いつも言ってるだろ」 敬意を払うのは飯を作ってやった時だけ。 現金な野郎でそん時だけは全身で感謝を示して実に美味そうに喰いやがる。 汚ねぇ喰い方をするが、物凄ぇ勢いで料理が掻き込まれていくのを見ているのは爽快だ。 この飯を作ったお前のことも大好きだ。 好きだ、好きだ、大好きだ! そんな風に叫ばれてるみてぇで、こそばいーんだ。これが。 「勿体無ぇなぁ」 ルール違反への注意をすっぱり無視した小僧はそう言いながらベッドに腰掛けた俺の手首を掴むと、血の溢れるそこに顔を寄せた。 何をするんだろうと思う間も無く、 ちゅうと傷口から血液が吸い出され。 ちりと痛むもどこか遠い感覚の向こうで、吸飲されているのだとぼんやり気付いたが、それだけだ。 元々排出するつもりで手首を切ったのだから、ちょっとくらい抜いてくれて構わねぇ。 俺は痛みにすら酔って緩く瞼を下ろした。 俺のしている事はお母さんと同じ。 彼女は苛々を募らせた末にそれをやった。手首を切って血を流し、ティッシュで拭った後はぼんやりと傷口を眺めて。そして顔を上げた時には妙にすっきりとした面持ちをしていた。何となく俺とは違う世界に母が入り込んでいると感じて嫌だったけれど、それをすれば気分を持ち直してくれるし、元より幼かった俺に掛けられる言葉などなくて。 母に言葉を届けられたのは、彼女の姉だけだ。 メガネを掛けて、髪をきっちりと後ろで束ねた彼女はいつも清潔な身形をしていた。 天然パーマのロングヘアーを無造作に垂らして、派手なキャミソールを着ていた母とは正反対。 お決まりな白シャツもパンツもぴしっとアイロンが掛かっていて。 伯母が家にやってくる時は、何となく緊張した。元より来訪者の少ない家だから誰に対してもそう感じたかもしれないが、彼女は毎回律儀にお土産を持ってきてくれるので、それだけは楽しみだった。 お母さんに習って俺もお姉ちゃんと呼んでいた彼女からプリンを受け取り、リビングと寝室を兼ねた畳部屋の隅に腰を降ろして普段よりも豪華なおやつに舌鼓を打つ。 それは彼女が来訪した時の決まり事みたいなものだ。 何も聞こえないふり。おやつに夢中なふり。 直ぐ側の折りたたみ式のテーブルを挟んだ姉に母がお説教をされているから、一生懸命反応しないように気を付けた。 お姉ちゃんはお母さんの手首の傷が減らない事をいつも咎めていた。 倒れない内はいいけどと前置きをしながら、それでもそんなことをしていたらいずれ…と小言を言って。 彼女は思ったことはズバズバはっきり言うが、その代わりグチなどは一切吐かない人で、お母さんとはそんなところも正反対だ。 お母さんは日頃の不満をぶちまけながら、正論を並べて返すお姉ちゃんに不満げに眉を顰めていた。 愚痴や相談事に尤もな返しをされると、決まって「でも」や「だけど」で否定するお母さんにお姉ちゃんもその都度キレながら、ストレスが一通り吐き出されるまでは辛抱強く付き合ってる感じだ。 お母さんは自分の悩みは理解されないとわかっていながら。反論されるとわかっているのに全部お姉ちゃんに話した。 それが未だ俺には理解できていない。 何故考え方の違う人間に対して態々話さずにいられなかったのだろうか。 言っても共感してもらえないからストレスが溜まるんだろうに。 黙っていればいいのにと子供ながらに感じたが、母親と真面目な話をするのはそれ以上に照れがあって結局出来ず終い。 俺が十三になった春にお姉ちゃんが事故で死んで、その二ヵ月後にお母さんも住んでた団地の一番高い階からの飛び降り自殺に成功してしまったから叶わなかったのだ。 あんなにお母さんを理解してくれない人だったのに、それでも亡くした事で母は絶望した。 俺がいてもいなくても、さして重要ではなくて。 自分の考えを決して曲げない、そんな頑固な所だけそっくりだったお姉ちゃんだけが、お母さんをこの世に繋ぎとめていたんだ。 きっとお母さんの中では、初めから世界に姉妹二人だけ、だったのだ。 そこで、だ。 父親が居なくて、兄弟も親戚もいない俺の世界には果たして他に存在する者がいるのだろうかと、時々考えたりする。 俺の住む世界には俺しか存在しないが、未だこうして生きているから疑問に思ってしまう。 もし生存の理由を母との相違から推し量るのであれば、俺は愚痴る相手を必要としないから、とそこに行き着く訳で。 飲み込むのなんか造作も無いんだ。 母と伯母の言い合いを再現するなんてとんでもない。堂々巡り。反吐が出る。 けれども俺も人間だから、時々消化不良を起こすので、そんな時はこうして手首をすっぱりやっちまう。 言いたかった。言えなかった。したかった。できなかった。 そんなものを全部、血液に乗せて外に送り出すのだ。 動かなかったが故に生じた責任も、或いはそれ故改善されなかった事後も、全て納得して適度に受け流す為に。 初めてそれをしたのは中華料理店で住み込みの仕事を始めた十六の時で、頑張っても認めてもらえなくてむしゃくしゃしていたある日、興味本位で袖をちょっと折った位なら隠れる手首より下の辺りにカッターの刃をあててみた。すっと引いて流れ出した鮮血を見て、妙に感動したことを覚えている。 ああ、やっちゃった。 できるもんなんだな。 そんなふうに、何だか新たな世界を覗けた気がした。 母親と同じ事をしているのが滑稽で、やっぱりな、って苦く笑いながらも。 以来これを繰り返している。 死ぬ為じゃない。縫う程でない浅い傷がその証拠だ。 ちょっと切り過ぎて血が止まり難かった時は普通にヤベッて思うし(失敗したことで余計に凹んだり…)、何よりこんなヒロインチックな方法で自殺なんて。 そうだ。これは俺の死に方じゃない。 そんな深刻な問題でもない。 ストレス解消にカラオケ行くくらいのモン。 若しくはオナニー。 俺は人に理解されたいとは思わないし、何でも一人で解決したいから、この方法がうってつけってだけの事。 そして、考える。 同じ事をしているのに、母は死に、俺は生きている。 違いはなんなのだろうと。 引き止めてくれる人がいないのだから、遅かれ早かれ、俺も母と同じ終わり方をするのではないか、と。 小僧が俺の傷口をぺろぺろ舐めながら、滲み出る赤を楽しんでいる様をぼんやり眺めた。 いつまでそうしているつもりか。 しつこく傷口を濡らしやがるから血が止まらねぇ。 ぺろ、ぺろ、ぺろ、ぺろ 痛みも麻痺しちまった。 つーか、飽きた。 「ルフィ、そろそろ放せ」 「お?悪ぃな。腹減ってたから」 しししと独特な笑い方で健康的な歯を覗かせる口はいつもより赤かった。 変な奴。 こいつも大概イカレてる。 でもこの傷の理由を無理矢理吐かされるよりはマシで、しかもこんなガキに説教とかされたらマジ堪らない。 その点ではこいつの側は居心地が良い。ゴミ箱に捨てられた血染めのティッシュと手首の傷を見ても「切ったのか?馬っ鹿だなぁ」の一言で終わらせてくれやがるし。 飯を作れるなら他は何をしようとどうでもいいんだろう。 腹を空かしてぶっ倒れていたところを仏心で喰わせてやったら、その翌日からさも当然の権利であるかのように飯!と居ついた何処の馬の骨ともわからん小僧の基準は食い物。はっきりしていて、いっそ清清しい。 だから。 …ふいに思った俺は一体このガキに何を期待したのか。 「なあ、ルフィ」 「何だ?俺は今夜唐揚げがいいぞ」 「馬鹿、聞け」 俺は少し笑って。 「俺がもし飯作れなくなっちまったら、代わりに俺を喰ってくれるか?」 「おめぇを?」 大きな眼を更にきょとんと見開いた顔が猿の赤ちゃんみたいでキモ可愛い。 世界をありのまんま見詰めても、きっとこの瞳には不純物なんて混じらないのだろう。そこにキモチワルイだけの俺が弾かれるみたいに映っていて少し居心地が悪かった。 「そうだ」 「生で?」 「あー、そうか調理ができねぇんだなぁ…」 「いいぞ」 微妙な流れに空を向いていた視線をルフィに戻した。 「喰っていいなら喰うぞ。サンジは美味そうだ」 冗談を言ってるとも思えない日に焼けた顔。 イカレてる。 妙な生き物に出会ってしまったという感慨は初めて手首を切った時の感動を彷彿させた。 そうか、喰って貰えるのか。 俺は再び広がった新世界に戦慄いた。 小僧の強烈な胃酸に解かされエネルギーとなり、肉体の隅々まで行き渡る己を想像するとドキドキする。 いつも俺の飯を平らげるみたいに豪快に屠ってくれるんだろう。 あっという間に居なくなって、そして消えるんだ。 この俺という人間が。 高揚感で笑いが止まらなくなり、肩を震わせながら必死に馬鹿笑いの衝動を抑えた。 今まで散々な思いをしながらもへばりつくしかなかった有形無形のこの<器>が、 この小僧の驚異的な胃袋で呆気なく終わる! 何て愉快なんだろう。 こんなに可笑しいのは久しぶりだ。 「けどなぁ、一つだけ問題があんだ」 「………」 人が折角気持ちよく思考の海を漂っていたのに。 近年稀に見る笑いの渦に浸っていたのに、さも困った声に邪魔されてちょっとムカついた。 俺は大人だから顔には出さないけれど、視線には目一杯棘を含ませる。 それを受けながらも、そ知らぬ風に腕を組みつつ神妙な顔で小僧は言った。 「喰った後、栄養になんなかった残りっカスは糞になって出ちまうだろ」 ああ、そうだな。 「サンジを糞にしちまうのは勿体無ぇんだよなぁ」 「……………。」 …そうか。 全部解けて無くなる訳じゃないんだ。 そういえば骨も残るな。 なぁんだ。 「そりゃあ…嫌だな」 俺は自分の手をしげしげ見ながら呟く。この手が野太ぇ糞にと想像して本格的に気分が悪くなった。 折角開けた新世界はあっという間に色褪せちまって、勝手に興奮していたのも馬鹿馬鹿しい。 「だろ?俺としちゃあ、喰うのもいいけど飯作って貰えるのも有難ぇんだよな」 身も蓋も無ぇ言い草だが、死活問題だとでも言いたげな小僧の言葉に裏なんて全くないんだろう。 同情なんて微塵も無く、本当に不都合だから渋っている。 わかり易いガキだ。 けれど、何でも恐れずに口にしてくれるから、こっちも気にせず馬鹿を言えるので。 姿形は全く違うけど、歯に衣を着せないところなんか、お姉ちゃんに似てる。 「だから、ずっと俺に飯を作ってくれ。本当の本当に無理ってなったら、そんときゃ残さず全部喰うから」 ガキはガキらしくない大人びた顔で言い切った。 本当かよ。 なんて疑問は形ばかりで。 穴が開きそうな程にじっと凝視してくる真っ黒な瞳は底が知れない。 さっきは弾かれていると感じた球体の中心に、今度はどこまでも吸い込まれそうになって俺は目を閉じる。 俺は多分、絶壁があったら飛び降りちまう人間で、吸引する力に対して脆弱なんだと思う。 その衝動に身を任せるのは心地良い。それは偽れない。 大きなものに取り込まれる瞬間の開放感はいつだって…。 目を開いた。 普通に考えれば「ずっと」なんて言葉にまず期待するべきなんだろうけれど、 愚かな俺には食される未来も矢張り魅力的で、 その選択肢が確実に残されたことが嬉しくて。 「わかった」 生まれ落ちて三十年間一人きりだった俺の世界に、初めて他者の色彩が定着した。 −−−−−− 母は死に、俺は生きている。 俺の世界にはルフィがいるから、まだまだ大丈夫なんだろう。 十七を数えたばかりの生命力溢れるこの子供の死に目を拝む確率は逆の比にならないくらいに低いだろうし、 例え予期せぬ事態が重なって、最悪死に別れの結果となったとしても、 多分慌てたりはしない。 ちゃんとわかってるから。 あの日のお母さんみたいに 赤く赤く染まるだけ。 |