『髪が痛んでる。仕事、頑張り過ぎなんじゃねぇの?』

髪を梳いてくれるブラシと弟の手の感触に半ば酔っていたシンドリーは、気遣わしげな声に現実空間へと引き戻された。
目を開ければ鏡の中に座る己と背後で俯きかげんにブラシを動かす弟の姿。
御揃いの金髪。御揃いの白い肌。
二人は姉弟という血縁関係を納得させるだけの共通点を有しているが顔の造形は少しばかり違っている。
姉のシンドリーが父親似ではっきりとした目鼻立ちをしているのに対し、母親似で生まれた弟のサンジは一重瞼のどこかおっとりとした顔立ちである。
顔の半分を覆う前髪に誂えて整えた髪形は若々しく、女優業を生業とするシンドリーの弟なだけあって愛らしい。
細い体躯も全てシンドリーのお気に入りであった。

『そんなこと言ってられないわ。頑張れる時に頑張っておかないと、いつ足元を掬われるか知れたもんじゃない』

知った顔でつんと言い返してやれば、弟は少し苦味を含んだ笑顔を見せた。

『いっぱしの芸能人だな。シンドリーちゃんは』
『ちゃん付けはやめて。シンドリーよ。シンドリー』

言い含めるよう鏡越しに睨む姉にサンジは尚も苦笑いを浮かべる。

『はいはい、失礼しました。シンドリー姉さん』

そのあやす言い草にシンドリーは頬を膨らませた。
この世話焼きの弟の前ではどうしてもただの娘になってしまう。
仕事場では華やかで社交的で、円滑に事を進める為の努力を惜しまぬ強かな女であるというのに。

『はい、終わった。シャワーを浴びたらちゃんと乾かさなきゃ。女の子なんだから、髪は大事にしなくちゃな』

ボブヘアーを軽く撫でて、脇から身を乗り出した弟が鏡台にブラシを置く。
ささやかな触れ合いが終わってしまう事に寂しさを感じ、シンドリーは遠ざかろうとする弟の手首を掴んだ。

『姉さん?』

傾いだ頸の筋の滑らかさにシンドリーは眩暈を覚えた。
成長するにつれ艶かしく変貌してゆく弟に、言い知れぬ欲を感じたのは何時からだろう。
初恋の相手であり、今だ情熱が持続しているのだと知れば弟はどう感じるか。
美しい男ならば現場に腐るほどいる。
その者等に引けを取らぬ美貌を持つシンドリーに言い寄る男は少なく無い。
けれど駄目なのだ。
姿形を売り物にしている彼等の洗練された出で立ちも、目の前の素朴でありながら何処か退廃的な魅力を醸し出す弟には適わぬ。
空いている左手をそっと手を伸ばして弟の長い前髪を払った。
金糸の向こうから醜く引き攣れた傷痕が覗く。
潰れたまなこを覆う二度と開かれることのない瞼を痛ましく見つめ、また少し手を伸ばして指先を頸裏に回し、そのまま引き寄せた。
初めは額に。
次は乾いた傷痕に。
そして、桜色の薄い唇に己のそれを重ねた。
弟の戸惑いが小さな震えとなって伝わるも、それを暫し意識の外に追いやり甘美な感触を味わう。

ん…。

小さな音が弟の口腔から漏れる。全てがいとおしい。
色狂いの如く貪りたくなる衝動を必死に留めて優しい愛撫を弟の舌先に施せば、弟もまたおずおずと返してくれた。
全部シンドリーが教えたのだ。
己の初めては全て弟に捧げようと随分と昔から心に決めていた。
十年前に両親と弟の左眼を不慮の事故で失い己だけが僅かな傷で助かってしまった負い目なども含まれているのだろうが、その理由も恋慕を構成する極一端に過ぎなかった。
口付け交わさねばならぬ舞台の仕事が舞い込んだ時に決心が付いた。
何故この抗いようも無く沸き起こるものが罪なのか。
女が男を愛する感情とどう違うというのだ。
どうして世界中至る所で奔放に交わされる契りが己達だけ禁じられねばならぬ。
−−−禁忌など、恐れるものか。
舞台の前日に何も分からぬ弟の唇を奪った。
それから何かが心に染みる度に、恋と呼ばせて貰えぬ、しかし家族愛の範疇にもできない儚い接吻を交わしてきた。
いつまで、この泡と消えてしまいそうな頼りない触れ合いを続けていられるのだろうか。
シンドリーは不安になる。
弟は一ヶ月前から街の外れにあるレストランで週に六日コック見習いとして働き始めていた。純粋培養で世間知らずに育った感性は今、様々な現実に晒されていることだろう。それを歓迎などしないし、いつこの関係に疑問を抱いてしまうかと密かに怯えてもいる。弟が働かずとも、両親の残した遺産とシンドリーの稼ぎで継続できるささやかな暮らしであったのだ。しかし、シンドリーの夢が女優であったように、弟もまた立派なコックになるという切なるという願望を抱いていることを知っていた。
本当はもっと早くに学びに出させてやることもできたが、弟が私生活の全てであったが故においそれと外の世界に触れさせることは躊躇われた。愛していたから…弟の見聞きするであろうものが恐ろしかった。
弟に連れられ入ったのは、落ち着いた内装でありながら和んだ温かさの宿るレストランだった。幼くして両親を無くした姉弟の後見人となってくれた父親のかつての仕事仲間が料理の好きな弟のセンスをいたく気に入り、シンドリーが仕事で帰宅できなかった日にご馳走してくれたのだそうだ。快活に笑う人好きのする性質の男であったが、弟に対して何かと触れ合いを持ちたがる所がシンドリーは好きではなかった。勿論シンドリーにだって優しくしてくれたし、昔はずっと素直に接していられたのだから、嫉妬以外の何物でもないのだろう。
口にしたオニオンスープは言葉を失う程に美味しかった。
弟の手料理よりも洗練されていると感じた。
悔しかった。
弟が其れを求めぬはずが無いのだ。
真剣な瞳で此処で働きたいとはっきり言ったその覚悟。
止められぬだろう。きっと弟は夢を実現し、最高の料理人になる。
一通りの愛撫を交わし名残惜しく離れた唇は少し腫れていた。

『姉さん…』

何かを言いたそうに、けれど弟は口を噤んだ。
シンドリーは緩く笑う。

−−−貴方の視る新世界は私にとって終わりの景色になるのかしら。

それでも今はまだ、この楽園にいさせてほしい。
寂しさに竦む胸を弟の細い腰に押し付けしがみ付く。
優しい掌が御揃いの髪を撫でてくれた。