鈴の音のみを響かせて、半獣の神が離れへ真っ直ぐとやってくる。

離れの建物の角から顔を覗かせたローの眼前を塞ぐ靄の脇からその姿は一望できる。ローから見ると右斜め奥に位置する鳥居からゆっくりとした歩調で近付いてくる。そして、縁石手前までやってきた時ふいに右手の白い指先がローに向けられた。


ちりん。


一つ。短く、強く、鈴が振られる。

同時にローを障ろうとしていた二つの影がたわんで、一瞬ヒトの姿が鮮明に現れた。
それらは笠と袈裟を法衣を纏った行脚僧のようないでたちをしており、皺を刻んだ不吉な面は土気色で、白く濁ったまなこがローではなくカミの方を強く睨んでいた。
その像が浮かんだ瞬間鼻腔に嫌な臭気が漂い、直ぐにそれが死臭であると気付く。
きっとこの影の本来の姿だったのだろう。

醜悪な姿は瞬く間に影へと戻り、来た時と同様滑るように注連縄の袂へと戻っていった。




強張りも解けて志気を取り戻したローは、そろりと爪先を差し出し庭の土を踏む。建物の影から完全に姿を現しても、黒い影達が近付いてくる事は無く、直立の形で何の反応も示さなかった。そのことに再度安堵し、それまで死角だった縁側を視界に納め、縁石から縁側へと上がったカミの動向を見守った。

室内の明かりが煌々と漏れ、木戸も障子も開け放たれていることを知る。
初めに庭先を覗いた時は灯篭の明かりでは心許ない暗さであったから、きっとローの窮地か、カミが姿を現した頃に、その存在を迎え入れるべく解放されたのだろう。

カミは蛍光灯の明かりに照らされても白く滲んでいる。しかしその輪郭や細部は人工的な光の袂ではっきりと形を成し、ローの網膜に整った横顔を焼き付けた。淡く発光していることを除けば、人の子供と何ら変らぬ。まるでこの世のものが日常の営みとして当り前に訪問したかのように錯覚してしまいそうだ。


ちりりぃん…
ちりりぃん…


儚い音を鳴らして、カミは座敷に上がっていった。

座敷には悪しきものに障られて臥せるホーキンスが居るはずである。
カミは兄を救う為に招かれたのだ。



あの細いかいながどのように災厄を祓うのか見てみたいと思うし、兄の首裏から伸びていたものの正体がどんな類のものなのかも知りたい。

もっと近付いて室内を覗きたいという願望が涌いたが、それをするには影達の直ぐ側を通らねばならぬし、きっと祖母や曽祖母達に見つかってしまう。
勘の鋭い婆等には既に気付かれているかもしれないが、傍から見ただけでも切迫した事態であることは、子供の頭でだって理解できた。ここから先は好奇心だけで邪魔をして許される範疇には無いだろう。
これまでの危機とて許容されるとは思えないのだから。

そんな思慮を回らせているうちに、座敷内が慌しくなった。

大人しくしろ!動くな!!

祖母の激が飛んだ瞬間に、何やら腹の底から発せられたのであろう雄叫びが上がる。



おおおーーーー!!!



今まさに災いの渦中にいるであろうホーキンスの怒声であった。
驚いたローは眼を見張る。常に冷静な態度で冷たさすら感じさせる兄のこんな大きな声はついぞ聞いたことがないからだ。


これは良くないことなのか、それとも、祖母等の予想の範囲であるのか。


霊的な事態との遭遇も、こうして儀式の最中に居合わせたことも、全てが初めての経験になるローには良し悪しの判断が付かない。

あの美しい童神はどうしているのだろう。オコンショサマが兄を救う筈なのだ。


居ても立ってもいられぬ焦燥が後から後から涌いて来る。自制の幕がぺりぺりと剥がれて行くのを感じ取り、いっその事脱皮する蛇のように、律する精神をずるりと剥き捨て駆け出してしまいたくなった。
もうすぐに、もう少しでこの脚は勢い良く土を蹴ってしまうだろう。

高揚感に流されかけた時。



ぶおんっ…と、一際低い、くぐもった虫の羽音のような不快な空気の振動がローの鼓膜を直撃した。
電車でトンネルに突入した時の何倍も耳が痛い。頭の奥深くでわんわんと無意味に鳴るものにツラが歪む。

思わず呻きながらも、何とか眼を閉じずにやり過ごしたが、今度は視界に映ったものに驚き眼を見開いた。


開け放たれた室内から縁側を越えて巨大な人の顔が飛び出し、首を窮屈に曲げて座敷を睨んでいたからだ。

恐らくは男の顔。それは先程見えた不気味な行脚層に良く似ていた。ただこちらは笠を被ってはおらず、剥げヅラがぽっかりと浮いている風で耳より後ろが無い。成人男性をゆうに飲み込んでしまいそうな程の大きさで、青み掛かった粘土色をしている。顔のでかさに反比例して顎の下から伸びる首はひゅるひゅると細くたなびき、座敷に近い方は黒い靄に変化していた。

ホーキンスの裏首から伸びていたもの。あの一筋の正体はこれだったのだ。



騒がしかった座敷がいよいよもって騒々しくなり、髪を乱したホーキンスが躍り出てきた。
白の半袖シャツを纏った彼の左前腕には肘の辺りから斜めに切り下ろした傷があり、勢い良く血が滴り落ちている。そして右手は細身の懐刀を握り締めていた。

懐刀はホーキンスが常に持ち歩き、普段は鞘に収めてベルトの後腰に挿しているもので、兄が何故その様な物騒なものを身に着けているのか、ローが常々不思議に思っていた代物であった。寸法は全長で二十センチ強。刃渡りは十四・五センチか。糸の巻かれておらぬシンプルな柄と鞘は共に朱塗りで鍔は金。学校に行く時は鞄に忍ばせ、浴中は着替えの上に鎮座させている。
長兄のキッドにはそのような習慣はなかったから、跡継ぎの義務では無いだろうし、ホーキンスがその刀を身に付け始めたのは五年以上も遡る。まだキッドが次代として有力視されていた頃だ。小学五年の夏休みの間に役場で働くはとこを連れ出し町で手に入れてきたらしい。長兄から聞いた話では、貯金し続けていたお年玉やら小遣いやらを叩き、子供の身では刀は売ってもらえぬからはとこに代理購入させる手間まで掛け、そうやって入手したのだそうだ。はとこが何故易々と担ぎ出されたかは疑問に残るが、次男の霊視力は親戚衆の間でも知れるところであったから、寄って来る悪いものを退ける為の護り刀として必要なのだともっともらしく語られたならば、そのようなものなのかと納得してしまったのかもしれない。とはいえ家族がいい顔をする筈が無く何度も取り上げようとしたが、人を傷付ける為に持っているんじゃないとつっぱねたホーキンスは頑として譲らなかった。これまで一つの我侭も無く学校でも優等生で通っていた子供だったので、よもや悪さは起こすまいと結局家族の方が折れて現在に至っていた。

ホーキンスが護り刀と呼ぶそれが今、持ち主の手の内で刀身を赤くまだらに染めていた。
では、あの腕の傷は…。


まさか、己で切り付けたのか…。
憑き物に狂わされてしまったのだろうか。


事態の急転についてゆけぬローに気付くことの無いホーキンスは、今にも襲い掛かろうという低い姿勢で中空の化け物を凝視している。歯を剥き眉間に深く皺を寄せ、怒りの感情を露に叫んだ。


「お前などにオコンショサマの尻尾はやらん!」


座敷からは顔の色を無くした祖母達も現れたが、暴走した兄に近寄ることも出来ず、兄と化け物の双方をきりきりと睨むばかりだ。血に塗れた刃を突き付け激しく威嚇しながら、兄の言葉は尚も続いた。


「四百年も昔の呪いなど恐くない!呪いを掛けたやつ等の子孫も今じゃ先祖が禁呪に手を出したことすら知らないんだろう!見ろ!俺一人縛ることもできないくらいに弱まってるじゃないか!!こんな過去の遺物に、オコンショサマの毛一本だってくれてやるものか!お前など俺が消してやる!!!」


兄は正気だった。
激情にかられ怒気を撒き散らかしているが、言葉は明瞭であったし、刃を構えて立つ姿には覇気が宿っていた。
呪いだ何だが日常から懸け離れていようと、おぞましい影と巨大な顔を前にしては今更である。
なれば、左腕の刀傷も血塗れた刃にも確固たる意味があるのだろう。
錯乱の弊害ではないのだ。

一際声を張り上げ化け物目掛けて跳ねた兄の右手の懐刀が大きく振り上げられた。
柄尻には左手をも添えられ、全身の筋肉をバネにして生まれた勢いで赤い雫を散らす切っ先が力一杯振り下ろされる。
狙い済まされた一撃は巨顔の眉間に吸い込まれ、そのままぶち当たったホーキンスの肉体はまるでゼリーの塊に身を沈めたかのように落下の速度を落とし飲み込まれてゆく。

兄がまるでスローモーションの映像のように青紫の不吉な巨顔の内部に潜り込んでしまった景色は余りに現実離れしていて、ローは驚愕の叫び一つあげられない。

音も無く半分の厚みしかない頭を突き抜けたロホーキンスは受身も取れぬ態勢で右肩からどさりと地面に到達した。

懐刀の一撃は確実な衝撃を生み出したらしく、仰け反り口を大きく開けた巨大な顔は、ホーキンスの肉体が突き抜けた瞬間に霧散した。
黒い靄に変化し、拡散して消失したように見えた。













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