暦が蒼天の節となり、大気が重苦しく湿り始めた頃、クラレットは初めて訪れた辺境の町サイジェントの南スラムを目指して黙々と歩を進めていた。ここ一週間野宿を繰り返した為に、すっぽりと頭部を隠したフードや、その下のたおやかな紺の髪は汗と埃に塗れて薄汚れていたが、本人は一向に気にする様子無くスラム特有の退廃的な雰囲気の中を足早に踏み入ってゆく。旅人の来訪が珍しいこの地域では彼女の様相は良く目立つ。地べたに座り込んで酒を喰らう浮浪者や煙草をふかしていた少年達の、一様に向けられる好奇な視線を切って歩いた。

(本当は全身奇麗にしてからあの子に会いたかったけれど…、仕方がないわ。顔と首だけは石鹸で洗えたし、今はただ、一刻も早くあの子の顔がみたいもの)

もうすぐよ、もうすぐ辿り着くわ

長旅で棒のようになった足も、この街の外壁を目にした時から嘘の様に軽くなった。前へ前へと、思いを追い越して体の方が求めているようだとクラレットは思う。普段ならうんざりしてしまいそうな坂道も階段も決して苦にならない。季節柄上昇する気温と湿気に汗を滴らせながらも彼女の心は弾んでいた。

彼女はそれから三十分歩きつめて、漸く目的の建物に辿り着く。
表札も看板も無い、所々崩れた塀に守られて建つ寂れた孤児院。
通称「フラット」
フードを外したクラレットは逸って駆け込んでしまいそうな衝動を抑えて震える指先を握り込み、甲の間接で粗末な扉を叩いた。二度・三度。けれど中々反応が返ってこ来ず、じれた彼女は普段酷使することのない喉を使って上向き加減に呼びかけた。

「すみません。どなたかいらっしゃいませんか?」

これで返答を得られなければ塀伝いに敷地内へ入ってしまおうと思案し始めた時、漸く中から少女の高い声が聞こえてドアが開く。

「どちら様?」

赤毛と大きな瞳が印象的な少女が慌てた様子で現れた。見知らぬ来訪者に驚いたのか、その瞳を更に大きくして見上げてくる少女の様子を一瞥したクラレットは、深々と頭を下げて素性を明かした。

「初めまして。クラレットといいます。弟のソルがこちらでお世話になっていると聞いてやってまいりました。弟に、会わせていただけませんか?」




来客を招き入れた少女は、どこか落ち着かない様子でちらちらとクラレットを見た。その視線を不思議に感じながらもクラレットは黙って示されたテーブルに着く。きょろきょろしてしまわぬように成るだけ少女かテーブルの表面に意識を集中させる。そうしなければ弟が過ごしている空間の全てが気になって仕方がない。

「どうぞ」

出されたティーカップには琥珀色のお茶が並々と注がれていた。ゆっくりと紅茶をすする機会など数週間ぶりで、その芳香に内心笑みを浮かべつつ、クラレットは礼を言いながらカップの取っ手に指を絡ませた。そしてゆっくりと喉に茶を通す様子を向かいの席で見つめていた少女は、クラレットが落ち着いたのを見計らって躊躇いがちに自分はここの家事を担当しているリプレですと自己紹介をした。

「確かにソルはここにいます。でも…」

その言い方が引っかかり、クラレットは口に運んでいたカップを置いた。

「今、…彼、調子が悪くて…」

何て歯切れの悪い言い方だろうか。
クラレットの心に言いようの無い不安が過ぎった。

「どういうことですか?あの子…ソルは何か悪い病にでもかかっているんですか?」

一瞬にして焦燥に彩られた悲痛な面持ちを表したクラレットに気後れしたのか、赤毛の少女はひくりと身を縮めて俯いてしまう。

「お願いです。弟に会わせて下さい。あの子に会う為に、私、一ヶ月以上もかけてここまで来たの」

ソルに何かがあったのだ。
そんな思考がよぎる度、クラレットは泣き出してしまいそうな自分を叱咤した。彼の身にアクシデントがあったのなら、尚更こんなところで崩れてしまう訳にはいかない。
必死の訴えを黙って受け入れていた少女はふいに顔を上げ、それまでとは違うはっきりとした口調でクラレットの深い瞳を見返した。

「わかりました。ソルの部屋に案内します。でも、どんな彼を見ても驚かないで。刺激したくはないから」

どういうこと?

少女の提示した条件が何を意味するのかクラレットには判断しようも無かったが、それでも弟との再会果たせるのだと浮き立つ心の方が強かった。
長い髪を揺らしてゆっくりと頷く。
その瞳には微塵の恐れも存在しなかった。



案内された弟の部屋は、居間を右に折れた廊下のずっと奥にあった。左右の扉の右側。作りから見て建物の真ん中に固まる部屋群と違い、窓越しに中が覗ける位置の筈だ。
一つの呼吸でタイミングを置いたリプレが控えめに扉を叩いた。

「ソル、貴方にお客様が来てるの。入るわよ」

静まり返った扉の向こうに人の気配は感じられない。本当に此処に弟がいるのか不安になり、無意識に両手を胸の前で握り合わせたクラレットを、リプレは返事を待たずに開けた扉の向こうに誘い入れた。
踏み込んだ空間は異様だった。
薄っすら埃を被ったクローゼットにベッドに勉強机と添え付けの椅子。壁中の染み。何かを潰したような跡。蒸し暑さを封じ込めた閉ざされた窓。黴臭さ。すえた臭い。
どうしようもなく空気が悪い。
クラレットは混乱してしきりに辺りを見回した後、漸くベッドで丸まる物体と化した若者の姿を見つけ、…息を呑んだ。
懐かしいチョコレイト色の甘い栗毛は変わりないが、よれよれの汚らしい寝巻き姿で背を向けて寝転ぶ弟からは凡そ生気という物が感じられない。
寝ている気配も無く、さりとて訪問者に気付く様子も無い。
面を喰らって立ち尽くすクラレットに構わず、慣れた調子のリプレはソルのもとに歩み寄り、肩を叩きながら身を屈ませ、囁いた。

「ソル、お客様よ。ご挨拶して」

若者が身じろいだ。少女の細い腕に助けられながら、緩慢な動作で振り向いた若者の顔を目にした時、クラレットの体からみるみる力が抜け、崩れる足元によろけながらベッドの縁にかしづいた。ぽろぽろと零れ落ちる涙は止め処なく、若者の肩に触れる手の微かな震えを止めることも叶わなかった。

「良いのよ、ソル。良かった。会えて、本当に良かった」

良かった、良かったとひたすら繰り返して嗚咽を漏らした。泣き崩れる自分の姿とそれを無関心に眺めるソルを見比べて溜息を吐いたリプレの様子にもクラレットは気付かなかった。



大所帯を物語るダイニングテーブルに着いた時、初めにレイドという名の青年によってソルの深刻な病状を説明された。若年ながらも騎士団長を勤めているのだというリプレの紹介通り、落ち着いた物腰に安心感を得られる男性であった。
テーブル下に置いた両手を湿ったハンカチーフに握り込ませ、クラレットはこれまでの経緯を語る。目の前では若き騎士と、先程と同様に紅茶を運んでくれたリプレが相槌を入れるでもなくじっと聞いていてくれて、話を折ることのない二人の気遣いが今のクラレットには有難い。自身とソルの複雑な生い立ちを順を追って話した。

「私と、兄のキール。そして母の住む家にソルが預けられてきたのは、あの子が六つの時でした。何でもお母様が流行り病で亡くなって身寄りがないとかで…。父と同じ無色の派閥に属する召喚師だった母の許で毎日習い事と訓練に明け暮れていた私は、初めてのお友達ができるととてもはしゃいだのを覚えています」

やって来た子供はチョコレイトの甘い匂いのしそうな髪をわふわと漂わせた、くりっと大きな瞳を瞬かせる可愛らしい少年で、クラレットは一目で気に入った。同じ出来事の繰り返しだった日が一変し、人見知りをする少年を厳しい母や気難しい兄に如何に馴染ませるかそのことばかりを考えるようになり、一年もするとクラレットの胸中にある思いが芽生えた。

──私、ソルのお嫁さんになりたいわ。

その願望をこっそりと兄に教えた。

「その頃はまだ、私だけソルの身の上を知らなくて…。兄から小馬鹿にしたように半分血が繋がっているから無理だと言われた時は、ショックで何も考えられなくなりましたわ」

恥じ入るように俯いて笑うと、聞き手の二人からも優しい雰囲気が伝わった。
実弟に抱いた淡い初恋と失恋は、思い出す度に心を青春時代へと回帰させる。クラレットに自覚はなかったが、そんな時の彼女は実に初々しく、見る者に羨望と慈しみの気持ちを抱かせた。

「でも、私のあの子への思いは変わらなかった。むしろ強くなりました。だって、一生家族でいられるということですもの。その日から、ソルは大切な弟となりましたが、母にとってはあの子の存在は少々複雑だったようです。私かキールのどちらかが派閥の大願を成就させることを望んでいましたから。表面上は分け隔てなく接していましたけれど…。だから、あの日…。ソルが運命の子に選ばれたと知った日、まるで葬儀をあげているみたいに家中が暗くなりました。私と母と兄の思いは違っていましたけれど。そんな中でソルだけがいつもと変わらない様子でした。派閥の本部へ連れて行かれた日も、泣きじゃくる私に笑い掛けてくれて…、行ってくるって…」

雨が降っていた。
真っ黒なレインコートを纏わせた幼き弟は死神達の手に引かれて、どんな世界に連れられてゆくのだろうかと。あの日抱いた恐怖や悲しみは一生消えないだろう。
再びクラレットの瞳が揺らいで大粒の涙を湛えたが、先程雫を拭ったハンカチーフは今は拠り所なのかしっかりと握られていて目元を清めることはない。

「それからは毎日が地獄のようでした。運命の日がいつなのか、ぎりぎりまで私達には知らされなかった。あの子のことが心配で、私はただ泣いて暮らしていたんです。母もすっかり変わってしまって。私や兄を役立たずと罵るようになって。お酒に溺れて身体を壊してあっけなく他界しました。私は非力な自分を呪って、呪って、呪って。ああ、ごめんなさい。これは余計なことですわね」

堰を切って溢れ出した感情を言葉で区切り、漸く流れ落ちる雫を手にした布で拭う。鼻を一啜りした後、気を張りなおして脱線しかけた話を戻した。

「儀式が失敗してソルが生きていると知った時は、奇跡を体感した思いでしたわ。すぐにでも会いたかったのですけれど、派閥がそれを許さなかった。今は重要な任務の最中であると言って、あの子と係わりのある私達兄弟に見張りまで付けて接触を禁じたんです。また、ただ待つだけの日々が続いたのですけれど、それでも以前に比べたら随分とマシでした。あの子が生きている。それが私の希望でしたから」

それから二ヵ月が経ったある日、自分達兄弟を付け回っていた派閥の影が忽然と消え失せ、クラレットは長い戦いが終わったのだと知った。そして、諜報部員として活動していたキールのもたらした情報を頼りに、たった一人の孤独な旅路へと赴いたのである。

「道中、一度だけ兄が姿を現したことがあったんです。兄は、会えば後悔するかもしれないと言っていました。…こういうことだったんですね」

整理しながらの長い語りを終えたクラレットは、右の親指でハンカチーフを撫でる仕草をした。深い疲労に溜息が漏れる。
己の半生を振り返り、言葉で紡ぐという事は思いの他神経を使う作業だった。



その日、クラレットはリプレ達の厚意でソルの隣室に宿泊できることとなった。
フラットで定められている消灯時間を過ぎてどれ位が経っただろう。
疲れ切っている筈なのに精神的な緊張に邪魔をされて、中々寝付けずに寝返りをうつと、老化で染みの浮いた無機質な壁が迫り、ソルの部屋と繋がるそれを指でそっと撫でた。
食事も彼の部屋で一緒に摂った。ベッドから降りることすらしないソルの側で、たった一人時間の許す限り喋り続けては彼を真摯に見つめたが、結局弟は彼女の存在をを認識してはくれなかった。
代わりに呼んだのは、兄の口からも何度か聞いた名前だ。
トウヤ。
ソルの心身を開放し、そして虜にした若者。

もう居ないのに、それでも貴方は彼を呼ぶのね。

潤みかけた瞳をそっと閉じる。
想い続けた末の辛い現実であったが、
それでもクラレットの全ては弟のものだった。





                                            end