4日も降り続いた雨が止み、今日は久しぶりの快晴だ。
開け放った窓からマナの恵み豊かな空気を吸い込んで、クラレットは気分良く室内を振り返った。
長方形の一人部屋の隅にぴったりと嵌ったベッドには、再会した時と同じに背を向けて眠る弟の姿がある。寝巻きは洗いくたびれて少々ぶしょったく見えるが、着せる度に汚すから、潔癖症のきらいがあったクラレットもいい加減慣れてしまった。

まるで、子犬みたいね。

可愛いから許してしまえる。そんな感覚に呆れながらも、クラレットはそういう自分を気に入っていた。

帝国領に程近い小さな森の外れに建てられた、質素な山小屋に二人は住んでいた。
世に言う『無色の派閥の乱』の終焉後、実兄であるキールの情報を頼りに愛する弟の許へと一人旅に出たクラレットを待っていたのは、病で記憶も人格も違えてしまった弟本人と、彼を家族同様に慈しむ孤児院の人々だった。
優しい者達であった。
些細なことで激昂し暴れる弟の両手首を、どこかにぶつけたりして傷つかないよう必死に押さえ込んでいた少女。彼の手首には少女の手跡しか無く、こんなにどうしようもなくなっても決して縛り付けたりはしないのだと知って、弟は確かに幸せな時を過ごしていたのだとクラレットは感涙した。
その上でソルを引き取らせて欲しいと訴えたのだ。
孤児院…通称フラットのメンバーは、少女…リプレ以外の誰もが一瞬息を詰めた。気まずい沈黙に拒否の気配が淀んでいたが、そんなものに臆するものかとクラレットは更に己の覚悟を必死に並べ。
そうして、レイドというそこでは一番の年長者である青年に逆に問われた。これから先、ソルの病状がどのように進行してゆくか、どれ程の短い命かを説かれた後、それでも君はソルと共に生きるつもりかと。
辛い時間を過ごした末に自分の許から消え去ることが確定している人間と、本当に君は生活していけるのかと。
この人はきっと誰かを失っているのだろうと感じながら、クラレットは湧き上がる意思に後押しされて力強く頷いた。
今まで生きてきた中で、最も強く己を信じた瞬間であった。
意外にもそんなクラレットの意を汲んでくれたのは、ソルの面倒を一番良く見てくれていたリプレであった。それまで控えめに、ただ聞き手に回っていた少女が、その時初めて意見表示というのものをした。

──あんなになったソルを見ても関係なく、ただ会えたことを喜んでくれた人だから、だからきっと大丈夫…。

少女は笑い、皆を見渡し、そして最後にクラレットに優しく微笑んでくれた。
とても奇麗で、寂しい笑顔だと思った。
その意味を知ったのはその日の晩である。
ソルとトウヤが良く語り合っていたという屋根の上で夜空を見上げながら、少女は膝を抱えて呟くように明かした。

──本当はね、ソルを見ていると寂しくなるの。私、片思いを捨て切れなくてね…。

先の一件をきっかけに打ち解けた少女の、闇に解けてしまいそうな声。

──ソルがトウヤを探す度に自分を見ているみたいで…。もう彼はいないのって、叫びたく自分を抑えるのに必死だった。私、トウヤを忘れたいって思うようになっててね。彼が居ない寂しさから逃げたくて。でも、どうしても忘れられなくて、忘れたくなくて…。

弟とトウヤという若者がどれ程の絆で結ばれていたのか本当の所を知る由もないが、二人は強く惹かれ合っていたのだと岩のような風体の男から聞かされていたから、クラレットが少女の痛みを理解するのに然程の労は無かった。

──辛かったわね。けれど、そうやってずっとソルを守ってくれていたのね。

夜風に冷えた少女の手をそっと握った。冷たい手は一瞬震え、そして震えはカーディガンを纏った肩にまで達して、少女の歪んだ口唇から嗚咽が吐き出された。

──ソルが羨ましかったから。トウヤを忘れたいなんて思わないソルが、すごく羨ましかったから。私も、ソルみたいになりたかったから…!

ごめんなさい、ごめんなさいと悲鳴にも似た謝罪を繰り返す少女の細い肩をクラレットは抱き締めずにはいられなかった。弟の心を奪ったその若者は、こんなに優しい少女の中にも傷を残して去っていった。
強い独占欲をひた隠し、愛した者の心とより深く繋がった人間の世話をするのはどれ程の苦痛だったろう。忘てしまえれば楽になる者の名前を繰り返す弟を、少女は疎み苛まれながらも守ってくれていたのだ。
誰からも愛されていたと聞くその若者は、一体どれだけの人の心を奪ったのだろうか。
ソルの中に、少女の中に、赤く滲む爪痕を感じ、まるで鬼が通った後の様だと身震いする。夜風がまだ冷たいと、クラレットは一人誤魔化していた。

あれからもう、一ヶ月になる。

セルボルト家の屋敷も家財も全てを引き払ってこんな辺鄙な場所に越して来たのは、この山小屋が元々朽ちかけたソルの生家であったからだった。
ソルの母親は、この辺りでは良く当たると評判の占術に長けた『魔女』だったようで、恐らく父オルドレイクはその噂を聞きつけて彼女との間に子をもうけたのだろう。その出生はどうあれ、ソルは母親の愛情は受けていたようだ。彼が死んだ母の形見だと肌身離さず持っていた首もとのクルスからもそれが伺えた。
だから、ここで過ごせばソルの精神状態も安定して、病気の進行も食い止められるかもしれない。そうクラレットは期待したのだが。

「ほら、ソルこぼしてるわ」

スプーンを口元に運びながら唇に触れただけで柄を傾けてしまい、弟の胸元はスープでじっとりと濡れていた。
溜息を吐きながら、やっぱりソルは私がいないと駄目なのねとスプーンを取り上げ、掬ったスープを半開きの口元に持っていった。
流れ込む食物を租借し、大人しく呑み込むソルの姿は抱きしめたくなる位に可愛い。
長いこと乾いていたクラレットの心は急速に潤っていた。
自我を失い、言葉すらも形に成らなくなってしまったが、それでもソルは自分がいないと生きていることも出来ないのだという事実がクラレットの占有欲を満たしてくれる。

今は私の事なんて忘れていてもいいの。
だって、貴方は死ぬ瞬間にきっと私を見てくれるわ。
こうして貴方を生かしているのは私なんだから。

それは、肉体の奥底を突き上げる位に魅力的な考えだった。

果てない妄想の中で異形と化してしまったトウヤにソルが抱いた歪んだ思想が己のそれと酷似している事などをクラレットが知ることは永遠に無い。
しかし、それは単なる偶然なのか。
それとも、『血』なのか。



日は随分と高くなったし、午後になって風が強まることも少なくなった。
久しぶりの行楽日和であったし、ソルの容態も安定していたので、クラレットはサンドウィッチを詰めたバスケットを片手に、弟の手を引いて近くの草原へとやってきた。
何をするもでもなく、小さな蝶々を追いかける弟を見守りながら、その陽気ゆえかいつしかクラレットの意識は深く深く沈んで行く。やはり、疲れは溜まっていたのかも知れない。思えば4日続いた雨の影響でストレスを溜め込んだソルのぐずりに対処しぱなしだったのだ。ソルから目を離してはいけないと思いながらも、クラレットはシートの上に横たわる身体を止められなかった。

このまま眠れば、幸せな夢がみられるかもしれない。

静かな寝息をたてて、一時の安眠を貪った。



優しい夢を望んで瞼を閉じてから、ものの三十分でクラレットは飛び起きた。
酷い寝汗と激しい動悸に苛まれる胸を反射的に押さえながら、何度も荒い息を吐いて体内に荒れ狂うエネルギーを放出する。事態を呑み込めぬまま、それまで見ていた非現実を思い返した。
ソルが、見知らぬ若者の肉を食んでいた。横たわるは恐ろしく白い身体に黒い翅を持つ、信じられぬ程に美しい形体。見慣れぬ横顔は硬く瞼を閉じ、眼球すら動かしてはいなかった。臓腑を千切り、生血をすする弟の喰らうあれは幻獣であったのか。
否、恐らくあれこそが件の異邦人、トウヤだ。
不思議ではあるがクラレットは強く確信していた。
艶やかな黒髪に縁取られた能面の如く硬い面の中で口許だけが誘うように赤かった。無心に蠢く弟の口許といわず顔といわずを染め上げる鮮血と同じ生々しい色に、
何て、奇麗…。
不覚にも、クラレットは魅入られた。
そして、自分も食したいと思った。
弟と若者を見比べながら無意識に持っていった指先の許、赤い舌をぺろりと出して上下の肉を舐めずりをする。けれども、自分の食欲を誘発するのが弟なのか、それとも若者なのかクラレットにはわからなくなっていた。
愛する弟の肉を食みたいのか。
弟が美味そうに喰らう肉を食みたいのか。
けれど、とても良い匂いがしていた。
その香りが若者の肉体から発せられているのだとわかった時、
クラレットは若者の雄にしては細い首を噛み千切りたくて堪らなくなった。
急いで駆け寄り、弟と同じく跪いてつるりと白い喉仏に喰らい付いた。
ぱっと広がる芳しい匂いに脳髄が掻き乱される。くらくらする。
絨毯の如く広がった美しい翅を、靴や膝がくしゃくしゃと踏み潰していたことに気付きながら、猛烈に沸き起こる食欲に抗う気持ちは湧かなかった。勿体無いが致し方ないと。
柔らかな肉や軟骨を噛み砕きながら、クラレットはそっと弟を盗み見る。
弾力のある臓物を、一生懸命に噛み切ろうとしている様子は矢張り愛らしい。
顔中真っ赤で、髪まで赤く滴っているのに全く気にしていないところなども、とてつもなくそそる。そして、恍惚の内に思う。自分がちゃんとしてあげないと、と。
甘い汁を啜りながら、クラレットはもっと食べやすいところは無いかと視線を彷徨わせた。横髪がペトリと張り付くのを鬱陶しく感じながら見上げた先で、先程までの勢いが嘘のようにぼんやりと座り込む弟の姿を見る。
真っ赤に染まった幼さを残す頬に、目元から溢れたと思われる赤い筋が一本通り、顎の先から行き場を失い雫となってぽたりと落ちる。
泣いているのだろうかと、不思議に思った。

──トウヤ

声にはならず、けれどその名を確かに呼んだ。
また鮮やかな赤がぽたりと落ちて、開け広げられた胴体に吸い込まれてゆく。
ふと、血が循環したと感じた。

おかしな子ね。お腹の中は彼で一杯の筈なのに。

これ以上何を望むのかしらと首を傾げながら、クラレットの意識は現実を取り戻したのだ。
呼吸が落ち着いても、暫くは麻痺したように思考が回らなかった。指先にまで痺れは残り、その状態から開放されるのに更に十分間を有した。
夢の内容のおぞましは精神的な疲労の現れだと気落ちして、近くにいる筈のソルの姿を探した。三百六十度をぐるりと見渡し、視界の届く範囲に弟の姿が無い事を知る。みるみるうちにクラレットの顔から血の気が引いていく。事態の認識と同時にクラレットは走り出していた。

半狂乱になって林の中を探し回った。
焦燥と心細さに引き裂かれてしまいそうになりながら、弟の名を叫び続けた。岩陰、倒れて腐った幹の裏側。見出す限りを探して、探して。
鬱蒼とした林の閉塞感に喘ぎながら、無意識に求めた光に飛び込むと、開けた視界の向こうで大地が唐突に途切れていた。
地面を裂いていたのは、足元深くを流れる清流であった。
この辺りに谷川があったと思い出したのは、実際に川面を覗いてからだ。
そして、どこか絶望的な匂いを嗅ぎ取り、ゆっくりと見渡した。
十メートルばかり左か。岩場の岩石の一つに覆い被さる様、うつ伏せる人影があった。
クラレットは目を閉じて深く項垂れた後、ゆっくりと立ち上がった。

深い渓谷に思えたが、川べりに降り立って見上げると、実際には四階建ての建物程度の高低差しかなかった。しかし地面は硬い石に覆われている為、最悪の事態の予測に身構える己を否定できない。足場の悪さに苦しみながら、クラレットは漸く倒れ臥せった人間の側へと辿り着いた。
甘菓子色の栗毛が、風に嬲られ力なくそよいでいた。
そこから染み出した赤い液体はまるで熟したベリーのソースのよう。
一瞬、夢の中で食していた鮮やかな血肉を彼が吐き出してしまったのかと錯覚したが、同じだけの時で現実を取り戻し、ソルの状態を確認するべく彼の名を呼んだ。

「ソル」

当然ながら…、返事は無かった。
不思議な感覚であった。
彼の死を認めながら、冷静でいる己に疑問が浮かぶ。
悲しくはないのか。涙は流れないのか。
けれども、クラレットの瞳は乾いていた。ソルの死に顔が涙の膜で歪むことは無い。はっきりと、良く見える。とても穏やかな表情をしていることがわかる。
彼の口許から弾けた血液の色に、クラレットは眩暈を感じた。
暫くは弟の面に見入っていたが、その内のろのろとソルの亡骸に触れて様々な箇所を見渡した。右足が脛の辺りで不自然に垂れているのが、まず不恰好で哀れだと思った。よくよく見れば、右側頭部もへこんでしまっているかもしれない。これも、可哀想だと思う。
死者の肉体は召喚術でも修復できないし…と考え、今の世は召術が使えぬのだと気付き、他所の世界に帰っていった誓約者は、本当に余計な真似をしてくれたと場違いな怒りがこみ上げた。
そうして壊れてしまった弟の肢体を観察していて、ある一点に目が行く。
日に焼けた右手から、はみ出す物あった。
艶やかな濡れ羽色のベールの様な翅。
繊細で、美しくて、何て毒々しい…。
硬直の始まった指をそっと解き、無残に握りつぶされた蝶の胴体から、無傷で残ったその前翅だけを千切り取った。
骨か血管を思わせる翅脈も、薄く透ける翅室も全てが黒い。

「これが欲しかったのね…」

視線を向けることなく弟に語りかけながら、見入ったそれに指先でそっと触れた途端、あの芳しい匂いが蘇った。


















あれから、十年になるわ。
私ももう三十歳。小皺も隠しようが無いし、おばさんて呼ばれるのにも慣れてしまったわ。
娘は元気。魔術師の養成所にも元気に通ってる。優秀な子よ。きっと立派な魔女になれるわ。ただ、私もキールも青い髪なのに、どうして黒髪で生まれたのかは今でも不思議なの…。隔世遺伝かしら。父上に似てしまったのかもしれないわね。些細なことだけれども。
私、今でも貴方のことが大好きよ。世界で一番愛してるわ。
だから、ここにも一人で来るの。貴方との逢引を誰にも邪魔されたくないもの。
ふふ、キールは私の言うことなら何でも聞いてくれるのよ。だから、こんな我侭も許してくれるの。流石に娘には明かせないけれど。私とキールが実の兄妹だってこともね。禁句よ、お墓の中に持って行くわ。
ああ、焦らないで。わかってるわ。これが見たいんでしょう?


クラレットは大事に抱えていた桐の平箱をそっと開けた。
敷き詰められた真綿の中心には黒翅が一枚、異様なまでの存在感を放って留められていた。かつて包みになったソルを抱え、彼を埋めるに相応しい場所を随分と探し回って漸く見つけた小高い崖の上、愛しい弟の墓石に見せつけながら、彼女にそれを手放す様子は無い。歳を感じさせぬ可憐な口許がくくと引かれて、見た者を竦み上がらせてしまいそうな程に妖艶な笑みを浮かべた。
甘い吐息を漏らしながら彼女は囁く。

「貴方が手に入れた他の翅は汚らしく潰れていたから、私、奇麗さっぱり捨ててしまったのよね」

弟の愛した人間は、この翅と同じくらいに黒く濡れた髪と瞳を持っていたと聞く。
だからあの日、崖から真逆さまに落ちても、この蝶を手にした死に顔は満足気だった。
なのに亡骸はたった一人で燃やされて、たった一人のお墓に入れられ。
そして訪れるのはクラレットだけ



毎年毎年眺め回すだけなんて、気が狂いそう?
こうして残った一枚も、私のお墓に入るのよ。
私の可愛いソル。そこで存分に苦虫を噛み潰しなさいな。
貴方が私を見ることは無かったけれど、こんなにも美しい宝物を手にいれたのだから、



私はとても幸せよ。




                                              end