まいった。困った。どうしたものか。

ジンガは溜息をつきつつ手近な樹木の幹に手をついて腰を屈めた。
此処一ヶ月、戦闘の後はいつも体に変調をきたしてその場を動き辛くなってしまう。別に気分が悪い訳でも、だるいとかでもない。むしろ気持ちは昂ぶっているし、身体だって放出し切らぬエネルギーが気脈を巡って落ち着かないくらいだ。
そう、落ち着かない。元気すぎる。
運動後の清い汗が焦りからか脂汗になるのを感じて、ジンガは何度も臍の辺りを叩いた。
そうやって足掻いても、中々散ってくれないのはいつもと同じだ。
己の中心に集中した、意思にそぐわぬ熱。
戦闘終了から三分経つも、頭をもたげた少年の息子は確実に着衣を押し上げていた。
しかも今日は少年が宿代わりに住まわせてもらっている孤児院の連中と薪拾いに来ていて、運悪く遭遇したはぐれ召喚獣との戦闘の後なのだ。いつまでもじっとしていることはできそうにない。
案の定後方で仲間の一人、ガゼルの呼ぶ声がしたが、曖昧に笑うことしかできず、ますます混乱は深くなる。
その時、仲間達の許から走り寄る足音が聞こえて、ジンガはぎょっと身体を縮めた。
その気配が誰のものかなんて振り返らずともわかる。

嘘だろーっ。嫌だーっ。

心の中で吼えまくった。
こんなみっともない姿を見られたくは無い。少なくとも誰よりも尊敬していて、しかも『下』の話からは限りなく縁遠いその人にだけは。
けれど、ジンガが憧憬を抱く人物はそれに値する器量を持ち合わせているので、やはり見るからに不調な様子を放っておいてはくれなかった。

「ジンガ、大丈夫か?どこか苦しいのか?」

脇から覗き込んでくる整った顔に、ジンガの口がひくりと引き攣った。

「何でもないって、アニキ。悪いけど、先に行っててくんないかな」

無理やり笑顔を作るも逆効果であったようだ。その人の真剣そのものの瞳が、様子を探ろうと表情から身体へと移していくのを受け、ジンガはえいままよと投げやりになって下を向いた。それでも羞恥は拭えず、自分を殴って気絶してしまいたいくらいだ。
そうして、遂に異変の源を知ったであろう『アニキ』こと二歳年上の学生剣士トウヤは、すっと姿勢を正すと、こちらを伺っている仲間に通る声で言った。

「すまないが、先に行っててくれないか。すぐに後を追うから」

いや、アニキも行っててイイって。てゆーかお願い…

泣きたくなって、股間を押さえる左手とは逆の掌を両瞼に当てると、幹との距離を支えていたつかえを無くして、ジンガの若年ながら逞しい肩がどんと樹皮に預けられた。

「取りあえず座ろうか、ジンガ」

歳若い少年の激しく荒れ狂う感情を他所に、トウヤはあっさりとした態度で腰を落ち着けるよう提案してくる。ジンガにはこの若者の言葉に抗う術は無く、猫背の格好でそろそろと膝を折った。
一緒に膝を着いたトウヤもその場に崩した正座の形を取る。

「大丈夫だよ、ジンガ。そういうのってよくあることらしいから」

「え?」

「戦闘時の強い興奮に影響されたんだ。思春期は特に調整しにくいんだよ。落ち着けば、すぐ楽になる」

生々しい固有名詞も出さず、トウヤは至ってさらりと言った。性教育でもされるのかと変に身構えていたジンガも、その態度に幾らか落ち着いて息を吐き出す。おちゃらけた相手とならその手の話にも合わせて馬鹿笑いができるが、こと目の前のこの人物ととなると、変に気恥ずかしさが先に立ってしまう。それはきっと、このトウヤという若者が見るからに真面目で、卑猥な話題に疎いと窺い知れるからだろう。

「気を練り直すのもいい。…その方がいいかな」

案の定、トウヤは至極真面目な方向で事態の解決に乗り出した。
股間を落ち着ける為に黙想するなどと、他の人間では出せぬ結論だろう。
しかしそんな潔癖さがジンガは好きだった。トウヤを「アニキ」と呼んで慕い、現在の目標として敬っているのは、そんな魅力に影響されてでもあった。

「アニキも付き合ってくれるのか?」

「うん。久しぶりだしね」

ジンガとは背中を合わせる位置に移動したトウヤは、先と同じく、今度は幾分正した姿勢の正座で背筋を伸ばす。その位置関係は、二人が座して精神鍛錬を行う時の決まり事みたいなものだ。ジンガも押さえていた股間から手を離して胡坐をかき、軽く丸めた掌を天に向けて両の膝の側面に軽く乗せた瞑想のスタイルを作り、目を閉じて、呼吸を数えた。
そこからは何も難しいことはない。
背中合わせで存在する静かな流れに同調すればいいのだから。
トウヤとこうして精神を解放させるのが、ジンガには至上の一時であった。
とても安らぎ、無心になれる。
故郷で暮らす師匠の自然との調和が完成された気とも似ているが、それよりはずっと若々しく、例えれば初夏の青葉の清清しさを連想させた。トウヤもまた鍛錬の道を行く探求者であることが、ジンガには心強く励みにもなるのだ。

そうして、二十分もしただろうか。

名を呼ばれ、肩の端を軽く叩かれてジンガははっと目を開ける。

「そろそろ行こうか」

優しい声と奇麗な造りの顔が側にあって、外部の刺激に敏感な少年の心がどくりと鳴った。
それを誤魔化す為にすぐさま立ち上がったのは無意識だ。当初の目的であった股間の沈静は完全に外に追いやられていた。無論その目的が果たせた故、苦もなく背筋を伸ばせたのだが。

森の奥に分け入った仲間達の後を追って歩き始めたトウヤの隣にジンガも並んだ。
南スラムに住む者達は生活の消耗品である薪を、業者から買い取るか、或いはこうして危険な森に踏み込まなければ薪を入手することはできない。森林の深部からまだ遠いこの辺りでは比較的燃料になりそうな乾いた枝は皆拾われてしまているらしく、落ちていても湿っていて実用には手間の掛かりそうな腐敗しかけた枝しか残っていなかった。加工の手間を惜しまなければ、もっとずっと外れにある樹木の枝を切り落として運んでしまえばいい。だが、今日必要なのは今夜の食事の支度に間に合う質の良い着火し易い燃料なのだ。だから、多少危険でも森の奥へと進まねばならないし、獣の縄張りも掠めて通らねばならないだろう。
それもこれも、薪調達係であるガゼルがさぼって切らせてしまったせいだった。
石切り場の仕事がたまたま休みで、ガゼルに付き合わされるトウヤに付いて来たらこんなことになってしまった。
ただ身体を動かして、普通に訓練をしているだけなら何とも無いのに、身の危険を孕む戦闘となるととたんに今日のような状態になってしまう。
トウヤはよくあることと言ったが、これがこれから先も続くのかと思うと気落ちせずにはいられない。何ともやりにくい。

そういえばとジンガは思い立つ。

「なぁ、アニキ。さっきのあれってさ、俺っちだけじゃないんだよな?」

「うん。そう…だと思うよ」

ほんの少し語尾を濁したトウヤに、ジンガの確信は強まった。

「じゃあ、アニキもなるんだ」

トウヤの足が完全に止まって、ジンガも先に一歩踏み出した所で静止した。
心持眉を顰めたかと思うと、すぐさま通常通りのすました表情を作って歩き出したトウヤにジンガは笑みを浮かべずにいられない。わかり安すぎる。

「アニキもああやって×××大人しくさせてんだ」

先程はトウヤの控えめな表現に安堵したくせに、立場が逆転したら平気で局部の俗語を発する。己の恥部を知られてしまった後のジンガには、遠慮というものがなくなっていた。

「僕はならないよ」

「嘘だー。瞑想で×××を鎮めるなんて、師匠にだって教えてもらえなかったもんよ。そりゃそうだよな。師匠は齢七十近かったからなー。やっぱ同じ悩みを持つ若い師匠はいいよな。勉強になるぜ」

後頭部で腕を組みながら、にやにやと饒舌に話しかける。そこには、自分が年下で可愛がられていることを自覚している甘えがあった。

「僕は別に悩んでないぞ。…その話はもう良いだろう」

羞恥からか頬を薄っすら赤らめるトウヤに、ジンガの胸はこそばゆくなる。
こんなことで体面を保とうとするトウヤの方が、余程ガキっぽくジンガには映るのだ。
失礼な話だが、それをとてつもなく可愛いと感じた。
この潔癖な人を赤面させるなんて、とんでもなくお得な経験の筈だ。トウヤに好意を寄せている人間が巷に溢れていることをジンガは良く知っていたから、そういう奴等がこの場にいたら、きっと自分は袋叩きに合うだろうと想像して、また嬉しくなった。
特にトウヤに引っ付いて回っている召喚師にしては反則な程殴る蹴るに長けた男ソルなどがいたら、間違いなくジンガは生死を彷徨うこととなるだろう。でも今、邪魔者はいないのだ。
だから、よせばいいのについ深追いしたくなった。

「うん。じゃあさ、他の時に元気になっちまったらどうしてる?」

尚も下ネタで食い下がろうとしたジンガの脳天に、言葉の代わりに飛んできた鉄拳が直撃した。一瞬視界がぶれた後、こぶが出来てしまいそうな痛みにジンガはイテェと喚く。

「それ以上喋ったら、ソルじゃないけどその顎を割るよ?」

優しい優しい声は、此れ以上ない恐怖を伴いジンガの耳介を突き抜けた。
涙目で見上げた先の表情も、冷たく冷たく笑っている。
どうやら羞恥を通り越して沸点に達してしまったようだ。
年下の特権も無効化されてしまうくらいに。
邪魔者はいなくとも、目の前にいるトウヤに息の根を止められてしまいそうだった。

厄日だ…

ジンガは思いっきり鉄罠を踏んでしまった気分でさっさと先へ進んでしまう背中を追った。






                                         end