気だるさの中で目覚めた。
此処のところ五月の半ばとは思えない暑さが続いていたのに、今日は珍しく肌寒く、出したばかりの夏蒲団を肩の上まで引き寄せる。
使い古した布団カバーの生地を素肌に直接感じながら、自分が下着だけしか身に着けていない状況と経緯を、ぼんやりした頭でなぞり。

「あ…れ…」

自分がたった一人で横たわっていると気付く。

「センパイ…」

記憶が途切れるまで腕の中に収め、眠りについてからも側に居てくれていると信じていた人の姿がどこにも無かった。ベッドの上は元より、六畳の狭い部屋のどこにも。
のっそりと起き上がると、腹まで落ちた掛け布団の代わりに、涼しいとも寒いとも取れない曖昧な室温がぬくとまった俺の上半身の熱を奪う。
特に強烈な寒気を感じた訳でもないが、半ば反射的に両腕を摩りつつ、床でわだかまる脱ぎっぱなしのTシャツを拾い上げた。
自分の衣服しか散らばっていないから、もしかしたらセンパイはとっくに着替えてトイレにでも行っているのかもしれない。
籐矢センパイという人は、セックスの後の余韻というものに浸ることを余りしなかった。
満足したらそれで結構。下手したらさっさとシャワーを浴びて帰ってしまうこともある。
その辺りはやはり女と違うと思う。
面倒臭さかない代わりに、物足りなさは常々あった。
この関係が一方通行でしかないと分かっているだけに、そんな時の俺はちょっと甘えた声で引き止めて、結局は玄関まで出向き彼を見送るのだ。
共働きの両親が帰って来る前に、俺達は逢引を終わらせなければならない。
男同士なんだから先輩後輩の間柄を疑われる筈もないのに、彼は神経質なまでに俺の両親と顔をあわせることを嫌う。
わからないでもないのだけれど。
多分、逆の立場だったら俺も彼の両親には会い辛いだろうし。

ごめんなさい。俺は貴方達の大事な息子にとんでもなくいやらしいことをさせてます。
それもいっぱい。数え切れないほど。

そんなことをぐるぐる考えながら下を向くであろうことなど、容易に想像がつく。
結局俺達の関係は世に明かせぬ類のものなのだ。
知らず、溜息が漏れた。
この心が満たされる時が訪れることなどあるのだろうか。
身体を繋げている彼の気持ちも手に入れているとは言えないのに。

彼を初めて抱いた時は、もう死んでもいいと本気で思った。
刺激を与える度に白い体が生々しく跳ねて、眉を切なく寄せた奇麗な顔が上ずった喘ぎを吐いて。痩せて、平均体温だって人よりちょっと低いのに、俺を包み込んだ内部は燃えるように熱く…。もう、男なのにとか女じゃないのにとかそんなことはどうでも良くなって、彼の名を呼びながら夢中で何度も果てた。
何故、今もって籐矢センパイが俺を受け入れてくれているのかは謎だ。
男からも女からも羨望の眼差しを浴びていたセンパイが、好意もひっくるめてそれら全てを煩わしいと感じていることも知っている。可愛くて結構人気のあった女の先輩からの交際の申し出を断った位で腹いせに深崎籐矢はホモだなんて噂をばらまかれたこともあったし、男は男で能力やモテっぷりを妬んで絡んでくることも数知れないと明白で。
そんなんだから、二人っきりになった生徒会室で思わず最初のキスをしてしまった俺が嫌われなかったのは、不思議というか奇跡というか。

蛍光灯の明かりの下で、彼は驚くでもなく、嫌がりもしなかった。
寧ろうろたえたのは俺の方。確かに憧れてた橋本夏美にフラれて多少落ち込んではいたけれど、それが男のセンパイとキスしたいなんて衝動に繋がるとは思えない。
でも、ただあの時俺は。太陽が寝床に伏せた大地に人の燈した灯りがぽつぽつと浮かぶ景色をぼんやり眺めていた彼の、その表情がとても奇麗で。何故か心臓を締め付けられて。
…そういう雰囲気だったんだ。とても、切なかった。
この世界を彼がたった一人で生きていると、何となくわかってしまったから。
それからも生徒会室だとか、教材倉庫だとか、体育館の裏だとかで何度かキスをした。中学の時に付き合ってた同級生(♀)以来の甘い感触にその時分の俺は舞い上がっていたのだと思う。いけないことをしているという自覚がまた拍車をかけていた。と、言い切れなくも無い。(実際彼とのキスを思い出しても同性であることに落ち込む以上に次はいつどんな場面で彼とそうなれるだろうと埒も無く考えていた)
二度目三度目以降は最初みたいに不意打ちなんかじゃなく、しっかりとお伺いを立ててからだ。彼は何も気に留めることなく、いつもただ「いいよ」と言った。引き寄せたり、唇だけ重ねたり。それを許されてしまったら、もっともっととなって。彼を抱きしめながら自分の中心が硬くなるのを感じ、男同士なのにこんなと、自分はとんでもなくおかしな精神状態にあるんだと思うと酷く不安で苦しかったけど、それでも抱きしめた身体の細さがとても愛しかったから。
何度目かの逢引で無意識に彼の身体を弄っていた時、手の平が彼の尻の丸みにぴったりと張り付いて、動けなくなった。自分の欲望をリアルに感じた瞬間。
そんな時でも彼はじっとしていた。
そして、俺の固くなったそれに触れたんだ。

──僕と、したいかい?

二年で逆転してしまった身長差は、彼が見上げる形となる。
挑発と呼ぶには頼りない、何ともいえない表情で微笑んでいた。
その日の夕方、両親が共働きのガランとした家に彼を招き、この部屋で初めて結ばれた。

あれから三ヶ月…。
センパイは剣道部の部長と生徒会の副会長の肩書きを二年に引き継いだので、前ほど忙しくなくなったからか、俺の誘いにちょくちょく応じてくれるようになった。
マックで軽食(センパイはオレンジジュースだけ)を摂ってから、この部屋でセックスをするのがお決まりのパターンだ。
今日も今日とて馬鹿みたいにセンパイを求めた。
自分で慰めるのが寂しくて堪らない程、俺はあの人に溺れてる。
だから、未来を考えるととても恐い。不安だ。
男同士だとかって以前に、あの人が何物にも執着していないことが。勿論俺をひっくるめて。
センパイの入れ物が俺の熱を享受しているだけで、あの人自身はきっと、この関係すらどうでも良いって思ってる。
また一つ溜息が漏れた。
思考がどんどん深みに嵌っていく。それを振り切る為にベッドから降りてセンパイを探しに部屋を出た。彼が側にいる時だけは余計な心配事に囚われずにすむ。触れていれば…、冗談を言ってあの人が吹き出す顔を見ているだけでも、俺は満たされて満足できるんだ。
だからこそ、居ない時間の落ち込みは激しい。

階段を下りて玄関から真っ直ぐ裏口へと通じる廊下の右隅にあるトイレに向かった。
飾り窓から光は漏れてないので、トイレではないのかと足を止めた時、その向かいのバスルーム兼洗面所からぼそぼそと喋る声が聞こえる。
首を傾げる。今この家には俺とセンパイしか居ないはず。

あ、携帯か。

俺は一人納得して足音を忍ばせて近付いた。悪趣味だけどセンパイが誰と話しているのかが物凄く気になったのだ。

「うるさい。黙れ」

その声に怒気が含まれていて、俺は驚き竦んでしまう。自分が叱られている訳でもないのに盗み聞きを咎められた気がして。けれど引き返そうにも緊張した足元が物音を立ててしまいそうで動くに動けなくなってしまった。
携帯で話中とばかり思っていたから、次いで漏れてきた声にぎょっとする。

「怒るなよ。お前にだってわかってた筈だぜ」

気味が悪い。
それはいくつもの声が凝縮したような妙なぶれかたをしていて、耳から入ると脳味噌を引っ掻かれたみたいに不快になる。まるでこの世の物ではないみたいに。
扉の向こうで誰とも知れぬ者と会話を続けるセンパイの姿を想像して背筋に冷たいものが走った。止めるべきだと強く思うのに身体が硬直して動かない。
自分が、その声の主に恐怖を感じているのだと知る。

「あっちは夢。こっちが現実だってな。なのに未練たらしくあの公園に通う。はは、またあいつが自分を呼んでくれるかもしれないってか?ありえねぇよ。ありゃ、事故だったんだ」

「わかっている。黙れと言っている…!」

「この世界じゃ、お前はどう足掻いたって主人公にはなれやしない。誰にも必要とされず不満に埋もれて生きるんだ。せいぜい年下のガキを身体で釣る程度の楽しみを貪りながらな」

「やめろ…っ、…あっ!」

………!
良く知る、あの時の悲鳴が語尾に混じった。
嫌な汗が体中から噴出す。拭うこともできなくて、小便までちびってしまいそうなくらいに俺は怯えた。
何が起きているんだ。
一体何が。

「リィンバウムとは違った価値で俺はこの世界を気に入っている。向こうとは比べ物にならねぇくらいの不の意識に満ち溢れてやがるからな。マナは微弱だが、それで充分代用が利く。何だったらこの世界、潰してやっても良いんだぜ」

「い…っ」

荒い息使いは途切れることなく。

「何故だ?お前にとっちゃ糞つまらねぇ世界だろ?お前にこういうことしか教えなかった野郎もひっくるめてぶっ壊しゃ良いじゃねえか。俺が手を貸してやるって言ってんだよ」

「違う…違う…」

「大馬鹿野郎だな、てめぇは…。わかったよ。もう少しこの状況を楽しんだら…、お前を俺の世界に連れていってやる。お前はそこで、俺の物として生きるんだ。未来永劫、死ぬまで一緒にいてやるよ」

一番恐ろしい言葉を、この時俺は聞いてしまったんだ。
リイン…?マナ…?こういうことしか教えなかった?誰だそいつは。…そんな疑問は全部吹き飛んで。
このままでは、センパイが得体の知れない何かに攫われてしまう。
やもすれば恐慌に攫われ掛けながら、動けと念じる間も無く身体は勝手にドアノブを捻っていた。今までの金縛りが悪い夢であったかのように。

「センパイ!」

漸く開けた視界に収まった人は、洗面台に縋りついて身体を震わせていた。痩せた肩が痛々しいまでに痙攣している。労わろうと触れた手は、過剰に反応した肩骨に跳ね返された。

「大丈夫ですか?一体何が…」

言葉は最後まで続かず、突然向きを変えて俺の身体にしがみ付いてきた彼にバランスを崩されてしまう。ドアを押しのけて、センパイを胸に支えたまま背中から廊下に倒れこんだ。

「センパイ、センパイ!?」

こんな彼は初めてだ。
こんな、形振り構わず怯えるなんて。

「大丈夫ですから。もう、大丈夫ですから…」

彼の背中を摩りながら、窮屈に首を起こして脱衣所を探る。…空虚だ。何もない。誰も居ない。勿論センパイは携帯なんか持っていなかったが、空気も気配も正常だった。
それが確認できた時、俺自身もがちがちに震えていたことに気付いた。



部屋に戻った俺達は、彼から望む形でもう一度身体を繋げた。
何時もと違う交わりに心底戸惑いながら彼の中に自分を埋め込む。センパイの手は俺の腕を握ったまま片時も解けない。挿入の瞬間強く爪を立てられてちりりと痛みが走ったけれど、俺を感じてそうなっているんだと思うと、泣きたい位の幸福に埋め尽くされた。
初めて求められている気持ちになった。
俺は、必要とされている?

「好きです。センパイ。好き…」

細い身体をめいっぱい折り曲げて、喘ぐ唇を貪った。
何度も打ち付けて、何度でも復活して、センパイの中に納まりきらなくなった俺の体液が溢れ出ても尚、俺は彼の白い狭間から抜け出せずに…。

嵐が過ぎ去った静寂の中、俺は未だ自分を狭い内部に収めたまま、背後から彼を抱きしめていた。

「センパイ。さっきのあれ、何だったんですか?」

やはりと言うか答えはなくて、俺は彼の首に鼻を擦り付けて甘えてみる。

「あんな声、俺、聞いた事ないよ。訳のわからないことばっか言ってて…。それとも、俺の聞き間違いとか?…ねぇ、聞いてる?どこにも行かないですよね?俺がセンパイを守るから…」

やっぱり、先程のセンパイは夢みたいなものか。
あんなに怯えて縋り付いてきたのに。今の彼は少しも反応を示さない。
彼の身体はここにあるのに、俺達の一番敏感な部分はちゃんと繋がっているのに、肝心の心が酷く遠い。俺は未だ少しも彼に認められてはいないんだ。

『お前を俺の世界に連れていってやる』

あの声が幻聴であったらいい。
怯えた彼も思い過ごしであったら。
俺のこと遊びでいいから、センパイを失いたくない。

一人で生きるこの人の世界に、入り込める日は来るのだろうか。
けれど先の見えない不安も、この人が目の前にいてくれるから抱ける感情。
この人が居なくなったら、きっと何も残らない。
俺の世界は空しいだけになる。

だからせめて、一言だけ「どこにも行かない」と言ってほしい。
教えて欲しい事は山ほどあるけど、決して多くは望まないから、それだけ約束してほしい。

「俺が守るから。…何とか言ってよ、センパイ」

身じろいだ彼の動きに刺激されて、萎えていた部分に再び血の気が宿る。
言葉を貰えたらこんな酷い気持ちにならないのに。
途方に暮れながら、逃げられないように押さえ込みつつ収縮する内部に己を擦り付けた。
彼の従順さをご機嫌取りの駄賃みたいだと感じながら。



帰宅した母親の物音が聞こえても、俺はセンパイから離れることができなかった。息を殺して、彼の口を塞いで。もう少しで日付が変わると言う頃になって漸く俺はセンパイを抱きしめたまま眠った。





                                          end

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