しみったれた田舎町の狭い繁華街。流れ流れてこんな場末まで来てしまった。
男は咥え煙草で夜の街を猥雑に彩る男や女を見た。
この際、多少好みと違えどもどうでも良いという心境で獲物を物色する。
何かを踏み躙りたくて堪らなかった。
昼間の衝動をやり過ごせられれば、それで良かった。
こんな乳臭い辺鄙な土地に居つくつもりは無かったから、やり過ぎて相手を殺してしまっても、夜の内に街を出てしまえばいい。少々後ろ髪を引かれる思いもあるが、引き際こそが肝要と心得ている。田舎のぼんくらな兵士の追手位なら巻ける自身が男にはあった。
そんなことを考えていると、背後から自分に向けられたらしい声があり、男は反射的に振り返った。
そこには茶色い髪の小柄な青年が、両手を上着のポケットに突っ込んだ姿勢で立っていた。
「何だ」
男は胡散臭げに青年をねめつける。足先から頭の天辺までを観察し、この際こいつでも良いかなどと思う。極小の繁華街を小一時間も彷徨ったが、これといって趣向に見合う獲物は見付からなかず、半ば投げッぱちになっていたのだ。客引きなら、付いてく振りをして手頃な暗がりに押し込めば良いし、青年自身が売り物ならそれに越したことはない。喝上げの類なら、返り討ちだ。
青年は挑発的な視線で男を睨みつけて言った。
「あんた、ちょっと付き合えよ」
思惑通りに動く青年に男は嗤った。



















こんな筈ではなかった。




男は恐慌に陥り、心の中で悲鳴を上げた。
青年の拳が腹にめり込む度に衝撃で右手の肉が裂け、鋭い刃の感触が激痛と共に男を苛む。

喧騒の届かない路地裏まで、青年の後に付いて行ったまでは良かった。

どう料理してやろうかと野卑な笑いを浮かべた瞬間、青年が振り向きざまに鋭く飛ばした右足に頬骨を打たれ、その勢いで路地を挟む建物の壁に叩きつけられた。何が起こったのか瞬時の判断ができず、崩れ落ちる間も無く繰り出される突きや蹴りを全てまともに喰らい、未消化の夕飯を吐き出すに至った時にはあれ程いきり立っていた欲望が完全に萎えていた。
一時的に止んだ暴力の合間に、身体を折って嘔吐しながら、男は自分の不運を呪った。
ついてなかったのだ。相手はとんだ面被りだった。一発一発を確実に打ち込みながら、乱れなく素早く繰り返す。それは、そこいらのチンピラには無い技術だった。恐らく、戦うことを目的にしっかりと鍛錬を積んだ人間なのだ。
青年が再び動く気配を見せたので、男は慌てて涙混じりの声を上げた。
『まっ、待ってくれ!俺が一体何をしたって言うんだ!』
『あんた、今日の昼間バザーに来てただろ』
『あ、ああ』
『その時、トウヤを連れ込んだよな?こんな感じの路地裏にさ』

男は思い出した。

祝日の露店街で、混み合う最中に一際目を惹く若者がいた。
暗闇が凝縮したかの黒髪に抜ける様な肌が良く映えた、異質の雰囲気を撒き散らす存在。人種そのものが違うと思われる横顔は凛とした美しさを湛え…。きっと正常な趣向を持っていたとしても手を出さずにはいられないだろう。飛び切りの魅力を持つ若者だった。
男は後をつけて頃合を見計らい、声を掛けた。
──この街は初めてなんだ。道を教えて貰えないか?
恐ろしく陳腐な手管だが、若者が老婆を雑貨屋まで誘導していたのを見ていたので、関心を引くには充分だろうと考えたのだ。案の定、若者は懇切丁寧に、随分と場所を違えている目的地への道のりを説明しだした。場所は男が宿を取っている安ホテル。男がこのバザーへやってきた道のりを、哀れな若者は懸命に伝えようとした。
けれど男は喧騒や土地勘の無さを逆手にてんで要領を得ないふりをて、おまけに人込みに押されたようにつんのめりながら、すまない場所を変えてくれなどと愁傷な表情を作り訴えた後、視線を彷徨わせて目を付けていた狭い路地への入り角を指差した。
──あそこがいい
若者は疑いもせず、頷いた。何気に背中に添えた手には注意を払ったので直ぐに下ろした。失敗したくはなかった。こんな上玉を逃してしまったら、それこそ悔しさに人を殺しかねない。男は自分の性格を熟知していた。
人気の無い、大人が二人並べば塞がってしまいそうな路に若者を先に立たせて、男は腰に忍ばせていたナイフを取り出した。それを若者の身に着けた白いマントの上から突きつける。
──行け
若者はそっと振り向いた。
どこか、傷付いた目をしていた。
こんなことになるまで気付かないとは、何て御人好しなのだろうか。
この若者は何度もこんな目に遭って来ている筈だ。諦めに似た表情が、男にそれを知らしめていた。
男は可笑しくて堪らなかった。
まず殴り飛ばして気力を削いだ後、有無を言わさず犯してやろうか。これで大抵の人間は大人しくなる。その時点で関心がなければ金だけ奪って捨てるも良し。半殺しにして暫く動けなくするも良し。
通常ならばそれで終わるのだが、この時男には予感があった。
一度や二度貫いた位では、自分はこの若者に満足できないだろう。何度も、何度も突き入れなければ飽き足ることは無いだろうと。
そうなった時には近くの宿に連れ込めば良い。口を塞ぎ、手足を繋いでしまえば存分に楽しむことができる。ここで手酷く痛めつけておけば宿に着く前に逃げられることも無いだろうし、常に刃物をちらつかせていれば簡単だ。
そこまで男は考えていた。
路地も随分と奥まった場所に辿り着き、男は若者に命じた。
──下を脱げ
暴力で服従させようとも考えていたが、この若者には必要なしと判断していた。
恐らくは一時の嵐を黙ってやり過ごす種類の人間だろう。負傷を軽減する術を心得ているから、ふらふら付いてこれたのだ。
若者は動かなかった。
若者が怯えて萎縮しているのだと思い、もう一度、脱げと命じた。
細い輪郭がゆっくりと、流れる動きでこちらを向く。
面の動きに付いて来た身体の一部分、右腕がナイフの刃を押しのけかと思うと、左手が空気の流れの如くに伸びてナイフを持った男の手首を掴むやいなや、回転した若者の動きに吊られるように、男の身体は前にのめった。驚く間も無く地面に倒れ伏せ、そのまま右腕を背後に捻じり上げられる。
男は痛みに呻きながら、この狭い路地で瞬く間に己を伸した若者を半ば呆然と見上げた。
何と自然で美しい動きであったか。支配したのは怒りではなく驚愕であった。
──この街でこういうことは許さないよ
震える弦の如き声音が静かに降る。
男はすぐに悟った。
──同じことを繰り返したら、…容赦しない
自分はこの若者に決して適わないと。
ぎりと力を込められ、男は首を縦に振りたくった。

それが、昼間起きた事態の全てであった。

結局自分は何もできず仕舞いだったのに、何故今こんな目に遭わなければならないのか。
悪鬼の如く冷たい瞳を煌かせる青年が、拳で男の右腕を横殴りに叩く。
男は悲鳴を上げた。
男の右手は頭より高い位置で背後の壁に縫い付けられていた。獲物を奪った青年が、その刃で男の右掌を貫き、壁に突き立てたのだ。
「この手で、あんたはトウヤをどんな風にしたいと思ったんだ」
もう一度殴りつけた。男は音を噛み潰した形相で苦痛に悶える。
「あいつは可哀想な位に頭の足りない奴なんだ。目的なんか見え見えなのに、行動に移されなきゃわからないんだよ。今まで何度も嫌な目に遭ってるのにさ、それでも人を信じて掛かるんだ」
脂汗の滲む顔に、ぎりぎりまで青年は近付いてきた。
その瞳には本物の狂気と悪意が宿っていた。
「あいつの領域に下衆はいらない。俺が見つけ次第掃除してやらなきゃ」
恐怖が神経という神経を切り離してゆく。栓の外れた尿道から温かい物が流れ出すのを、男は遠い意識で感じた。




















サイジェントの街から程近い荒野の一角に獣が群がっていた。
はぐれの召喚獣や何世代も前に根付いた帰化生物が混じり合い、奪い合って何かを引き裂いている。
獣の一匹がヒトの腕を咥えて、そそくさとその場を後にした。
次第に獲物は姿を変えて行き、遂には一片の肉も残らぬ程に散っていった。
足も首も内臓も。
たまに転がるご馳走は、あっという間に無くなった。





                                             end