ネスティ・バスクは今にも深い眠りに落ちてしまいそうな程にまどろみ、安らかな面持ちで全身の表層に触れる温もりを堪能している。
丈夫な黒生地に覆われた細い肢体の胴部に腕を回し、その心臓の位置に右耳を置いて、トクトクと刻まれるリズムをうっとりと聞いていた。

「あのね、ネスティ」
「何?トウヤ」

とてもとても穏やかな返答に黒尽くめの少年トウヤは続く言葉を一時呑み込む。
こんなに心地良さそうなのに邪魔したくないな…などと感じてしまって、いけないいけないと言葉も無く眉を寄せる。
現在トウヤは、己の寝床であるシングルベッドで、繊細な顔立ちと細いフレームの眼鏡が特徴的な青年召喚師の抱擁を一身に受けて身を横たえていた。と言っても恋人同士の心を震わす甘さには程遠く、まるで親子のスキンシップにも似た安堵感だけが漂っている。ネスティは大人に甘える子供の如くしがみ付き、トウヤはそれを兄か父親の心境で許していた。
青年の住むゼラムの都からここサイジェントまで航路を使っても一週間はかかる道のりを、ネスティは飛行能力を持つ召喚獣を駆り一日でやってきては、その度にこうしてトウヤの体温を覚え込んで帰る。『世界の意思』と呼ばれる創造主達との交信を図れるトウヤと、この青年が所属する世界規模の組織『蒼の派閥』との間で世界の情勢などの情報交換の役割を担って定期的に来訪するのだが、一日掛かる旅路なので必然的に一泊した後に早朝サイジェントを後にすることとなる。それは良いとして、何故かネスティは過剰なほどトウヤに懐いていた。
一度捕まったら就寝時間まで離してはもらえない。いや、それ自体は全く問題ではないのだ。ただ。

「えっと、ね。僕等大の男が一つのベッドで身を寄せ合うのって変じゃないかい?」

なるべく遠まわしに、できるだけ己の言わんとしていることがそこはかとなく相手に伝わるよう言葉を選んでみる。

「確かに僕は良い大人だけど君はまだ少年だろう。別にヘンなことしてる訳じゃないし問題は無いさ」

何気に子供扱いされて、むー、と顔を顰めてしまう。

「そ、それはそうだけど、僕も君も男だよ。傍から見たらやっぱり変だって」
「傍からもなにも、今ここには僕等以外誰もいないよ」
「そうなんだけど…」

ああ、伝わらない。
ほとほと困り果てて天上を睨むトウヤの脳裏には、不機嫌に顔を顰める親友の姿があった。枯葉色の前髪の間から鷲色の瞳で拗ねた視線を投げつける護界召喚師の肩書きを持つ少年の名はソル。一つ年上なのだが背はトウヤより低い。それにふっくらとした頬の童顔で、その顔で上目遣いにお願い事されると何であろうと嫌とは言えない。抗ったって最後には受け入れてしまう。そんな泣き所と言えなくも無い少年がトウヤとネスティのスキンシップを非常に嫌がるのだ。ある日偶然今のような状況を目撃されてから、ネスティが去った後は必ずケンカになり、一方的に拗ねたソルと毎度の弁明が馬鹿馬鹿しく思えて放置を決め込むトウヤとの間に冷戦状態が三日ほど続いて、その翌日の朝の挨拶で何となく元の関係に戻るということを繰り返しているのだ。
ソルはこうつっかかる。

『 お前あいつが好きなんだろ?そうじゃない。恋人になりたいとか思ってんだろってことだ。男同士なのにベッドで抱き合うなんて、どう考えても気持ちを許して受け入れてる証拠だろ?そんなにあいつが好きなら追っかけてゼラムに行っちまえよ。お前なんか知るか。冗談じゃない、振り回されるのは沢山だ。ちくしょう、お前なんかとっととあの変態の所に行っちまえ! 』

言い放ってくるりと踵を返したソルがトウヤの言葉も聞かずに逃走。
毎回最後が涙声になっているのも気になるが、恋愛うんぬんとかネスティのことを変態呼ばわりしたりとか、とにかく色々なことをソルは誤解していて、その誤解も解けぬままにあからさまに無視されるのはトウヤにとっても不本意極まりないし、何より酷く落ち着かない。
拗ねだした少年ときたら、遠くからただじっと見つめていたかと思えば話し掛けもしないくせに半径十メートル圏内をうろついたり。行為にも参るがその時の悲しげで辛そうな表情に心が痛む。本来の少年は一匹狼の気質なのにそんなじめじめとした行動を取ってしまう自身をきっと許せないでいる。
声を掛ければ逃げ出してますます殻に閉じこもってしまうし。
自分で自分を傷付けてまでトウヤとの関係の修復を望む少年の気持ちが知れてやりきれなくなってしまうのだ。

だから、本当に困っているのはネスティに対してじゃない。
身体に腕を回されることも人の温もりを間近で感じることも嫌いじゃない。相手が落ち着いて気持ち良さそうにしているのを見るのはむしろ好き。
けれど、ソルが悲しむのは嫌だと思う。理由はどうあれ大切な親友が傷ついた顔をするのは見たくは無かった。
それは向こうがどれだけ身勝手であってもだ。
甘いとは自覚しているけれど。
もう、そういう自分のことを諦めてしまっているから。

だからやはり、どちらかとの関係を修正しなければならないのならトウヤは真っ先にネスティにそれを望む。
青年の悲しい生い立ちを聞いていたから人の温もりを求める彼なりの事情を否定するつもりはないが、その対象が何故自分なのかに疑問を抱いたのもまた事実だった。一時傍らで見守っていたトウヤにはネスティと彼の妹弟子であるトリスを繋ぐ信頼関係は絶対的なものと取れたし、他にも彼を受け入れ包み込んでくれそうな懐を持つ人間が集まっていたように思える。仲間を思いやる人達がそこにはいた筈だ。トウヤが身を寄せ共に苦難を乗り切った家族にも似た人達のように。しかし、ネスティはトウヤの温もりだけを欲しているのだ。その、焦点の理由がどしてもわからなかった。

一度首を傾げれば疑念は大きく膨らんだ。

「ねぇ、どうして僕なの?」

そう問えば、ネスティは初めて困惑の表情を浮かべた。

「トリスや、アメルや、他にも…君の周りには素敵な人達がいるのに、どうして僕に望むの?彼女達にはこうすることを求めないのかい?僕なんかより、ずっと君の近くにいるのに…相手が女性だから?でも、それでも僕にこうするよりも余程自然だと思うよ?」

おおらかな母性で持って、僕なんかよりもずっと柔らかく迎え入れてくれる筈。

それは非難ではない。純粋な疑問だ。
トウヤは時々こんな風に、複雑に築き上げた思考の一部に注意を払うと、それ以外の事柄を断絶しそのことだけを追及してしまう。
それまでの大人びた態度や雰囲気が一変して単純な反応を示すトウヤに相対する者は面を食らうものなのだが、少年自身にその自覚は全くなかった。

神経質な感を表す細い眉を寄せて考え込む青年を見下ろして、ただ答えを待った。視界に収まるのはこの世界独特の青い髪と、天辺よりも後部に寄った頭髪の分かれ目を伸ばすつむじ。昔道端で拾った産まれたての雀の雛を連想させる、そのぴんく色の頭皮に指先を寄せたい衝動に駆られたが、青年の思考を邪魔する訳には行かないのでまんじりともせずに彼を見守った。
ゆっくりと、青年は口を開いた。

「トリスにもアメルにも、同じ古からの因縁に翻弄された同族みたいな意識は抱くけれど、トリスはどちらかといえば危なっかしくて面倒をみてやらなければならない立場だと感じるし、アメルにはレルムの双子が常に寄り添っているから変な誤解をされたら困る」

僕もすでに激しく誤解されてるんだけど…。
話しを折りたくないので黙っておいた。

「他の連中は対等すぎて鼻から対象にならないし、先輩や師匠は持っての外だ。でも、君は…。君の側は落ち着くんだ。安心できるんだよ。とても…、物凄く…」

同族意識。対等。
それらのキーワードにトウヤは一つの答えを導き出した。そして、とても悲しくなる。

「ねぇ、ネスティ。君がこうして僕を求めるのは、僕が誓約者だから?」
「え?」
「僕がチカラを持っているから?それとも、大層な肩書きを担ってるから?だから君は懐の大きさを、僕に求めるの?」

青年の口がくっと閉じられ、再び彼は考え込んだ。

「僕はただの人間だよ。悔しいけど、歳相応の子供でしかないんだ。誓約者としての責務を諭し聞かされてもやっぱりどうして良いかわからない。エルゴ達に導かれなければ迷って立ち止まってしまいそうな未熟な子供なんだよ」

言ってから随分な台詞だと思う。考えた以上の泣き言が口から滑り出てしまって、ばつの悪さに一度言葉を切った。
重圧を感じていたとトウヤ自身初めて自覚した。吐息では吐き出しきれない疲労が降り積もる雪の如く、精神の奥底に沈んで淀んでいたのかもしれない。

「君がもし誓約者としての僕に安堵を感じてのことなら、申し訳ないけれど僕にはまだ重い。僕が素性を隠しているのだって、平穏に暮らしたいだけじゃなく、期待されても応えられるほどの器じゃないからだよ」

まだまだ弱小な己だ。これから先だってどうなるかわからない。早く多くの信頼を裏切らない成熟した大人になりたいと急いでも、成長の度合いは中々思うように進んでくれない。
ごめんねと、青年の身体から身をずらして遠ざけた。そうして生まれた空間に、ほぅと小さく息を吐く。

手一杯なのだ。何もかもが。一掴みの砂を零さず握るだけで精一杯。例えばそれに我侭な親友の存在が当て嵌まった。

「誓約者だからなのか…理由なんて分からないよ。僕はただ、側で君を感じていられれば、それでいいんだけどな…」

小さな呟きがぽつりと零れた。聞く者の心に染み込む声質に彼を遠ざけたばかりのトウヤの胸がきゅうと縮こまる。目の前の青年は、まるで捨てられることを怯えて鼻を鳴らす子犬のようだった。

「時々、どうしようもなくなるんだ。何かにしがみ付きたくて仕方ないのに、君意外に思い浮かばない。無尽のコードが僕を絡め取ってどこかに連れていこうとする夢をまだ見てる。ありのままの今の僕が全てだと皆言ってくれているのに、まだどこかで囚われているんだ。囚われた自分が、自分の中のどの部分に居るのかわからないんだ。問題を解明しようがない。見付からないんだよ、トウヤ」

細身の身体が、痩せたその肩がいつもより余計に小さく見えた。
普段は過ぎるほどに毅然と立ち振る舞う青年が、子供のように無心に頬を摺り寄せるその意味を垣間見てしまい、トウヤの思考は一瞬の内に深みへと滑り落ちる。
広大な景色のどこかで立ち竦んでいるであろう自分を探して彷徨う己がいた。自問し自答し歩き出す手立てを模索しようにも、問うべき対象を見つけ出せずに焦りだけが膨らんで、出口すらも見えなくて。そんなイメージはトウヤの中にも既知のものとして宿っている。馴染み深い、枯渇した景色だ。
そしてきっと、ネステイのそれは己が考慮するよりずっと重いのだと。震える唇を噛み締めて、トウヤは青年の頭部を抱き寄せた。そうすることに躊躇いはなかった。後にどんな弊害が起きようとも、その瞬間目の前で苦しんでいる者を放っては置けない…そんな性質のままに青年を抱きしめていた。

ごめんと、今度は青年が呟いて、剣士にしては頼りないと評される少年の腰に腕を回した。
またソルを悲しませてしまうかもしれないなと少し途方に暮れながら、トウヤは宥めるようにつむじにキスを落とした。頬や額への親愛のキスは、自然に行動できる位にはに慣れた。少しばかりの照れは残るが、唇の先で感じる温度がそれ以上にトウヤの心をじんわりと温める。
唇が触れた瞬間にぴくりと跳ねた頭部が、更に強く胸板に押し付けられるのを黙って受け止める。

苦しいのは皆同じ。
そして、望まれる瞬間は自分が思うよりもずっと相手にとっては意味があるのかもしれない。

だったらもう少し、この腕を開いていてもばちは当たらないだろう。青年には未だこうして繋ぎとめる綱が必要なのだ。
彼を手助けられる他の方法もトウヤは知りはしなかった。
ソルの姿を思い描き、ごめんね、と、言葉に出さずに謝罪する。独占欲の強い癇癪持ちの親友をどうやって宥めすかそうかとそんなことを考えながら、青年の穏やかな吐息と体温がやっぱり心地良いと感じる己にトウヤは呆れ果てて目を閉じた。




                                                  end