まるで雪のような花弁の向こうで佇む人に近づけない。
たった五メートルの距離を阻む物の正体を知っていてもどうすることもできずにいる。

桜の花は、やっぱりあなたに似ているよ。

ただ白いだけなら、あなたがただ潔癖なだけの人だったら、自分はこんなにも惹かれたりはしなかった。
雪と見まごう程に真白い花弁がそれでも儚く色付いているように、あなたの中にも確かに存在する悲しみや、怒り。
奥深い痛みと、やり過ごそうとする弱さと、それを許さぬ強さと。
かつてのあなたは奇麗な姿しかみせなかったから、人は我が物顔で決め込む花見客みたいに根を踏み荒らして、土を踏み固めて、花を摘み、枝を折り、やりたい放題。
それでも、満開の大木に悲壮感を感じぬようにあなたはやはり美しくて。
たぶんそれは、あなたが自分以外のものを切り捨てていたからなんだろう。
大地と人類程の隔たりを持って。だからこそ悠然と在れる。

俺もきっと、相容れぬ俗物に分類されるのだろうけれど、それでも。




「センパイ」




息苦しくて、眠れない日が続いて、あなたを呼び出した。
俺たちが出会った学び舎から巣立ったあなたとはもうおいそれと話せなくなるから。
どうしても。
どうしても、伝えたいことが。

「何だい?カツヤ」

振り返った表情の穏やかさが、甘くて、そして痛い。
あなたの身に降りかかった事実を共有することで、ほんの少し縮まったと思った距離が決定的に断絶してしまったのはどれ程前のことだったろう。
二年前の酷い雨の日に遭遇した忌まわしい場面は今もって腹が煮えくり返る。
壊れた竹刀が無残に転がった道場で、
イカレタ上級生とその取巻き達が馬鹿面であなたを。
押さえつけられていたあなたを。
それを救ったのは俺だったのに。
いつの間にかたったそれだけの事実で俺はあなたと細い糸で繋がれたと勘違いをして。
結局あなたは部活の練習中にそいつらを公然と打ちのめし、たった一人で事態を解決してしまった。圧倒的な強さと毅然とした精神に付け入る隙などどこにもなかった。

そして前触れも無く屈託を無くしたあなたにちらつく『誰か』の気配に、不快な悪臭にも似た嫉妬を覚えたのは何時からだったか。

喉が震えた。
唇が請わばって酷く不快だ。
それでも、今でなくては。

「センパイ、俺…」

あなたを…




言いよどみ、何度も拳を握り直していると。
あなたはふと視線を空に彷徨わせて桜花を見上げた。

「三年になったら部活はどうするの?」

突然問われて懸命に構築した言うべき言葉が一瞬の内に飛散してしまう。

「ああ…、えっと…。部室には通うつもりです。絵は描きたいですから」

「そうか。本当に絵が好きなんだね」

視線を降ろしながら吐かれた言葉は吐息のようにどこか儚かった。
飽きっぽくて何をやっても続かない俺も、こと鉛筆や絵筆を握ることには拘りを持っていた。
幼い頃から真っ白なスケッチブックの無限空間に取り付かれるままに、空想や現実を切り取って収めていたのだ。

「俺には…それしかありませんから」

空っぽの自分を埋める唯一の手段だった。

「全く。だからなんだろうね」

「え?」

「君のことが気になって仕方なかったよ」

一陣の風が凪ぎ、互いの姿を翳ませる程の花弁が散り乱れた。

「放っておけなかった」

「センパイ…」

実際に人に甘えるということを覚えたのはあなたと出会ったからだ。
悩み事は何でも話せたし、恋愛の相談にも乗ってもらった。
あなたが下の名前で呼ぶのは学校中で俺だけだって知っていたから。
まるで、兄弟みたいに…。

「君はもっと自信を持って良い人間だよ、カツヤ。理由なんて何でもいい。好きなものを好きと言えれば、それでいいんだ」

その唇の漏らす言葉は呪文だった。
魔法を掛けられたみたいにいつだって容易く囚われる。

「絵を描いている時の君の真剣な姿が、僕はとても好きだった」

あなたは微笑んだ。
その笑顔を見た時、全ての答えに満たされた気がした。
ずっと、誰かにそう言って貰いたかった。
描くことしかできないそれしか持たない自分を、取り得など無くとも有りのままに許されたいと願っていた。
空洞だと思っていた自分自身に確かな質量が生じ、あなたが好きだと言ってくれる俺がちゃんとこの内に存在するのだと実感できる。慢性的に付き纏っていた願望が昇華しする感覚は形容し難い開放感を伴った。

「いつか、センパイを描かせて下さい」

言えなかった言葉が何の苦もなくこぼれて、俺自身が気付かぬ程自然に笑っていた。
あれ程喉元に張り付いていたのが嘘みたいだ。
あなたは逆に驚いた顔をして、それから特有の苦笑いに変じ。

「手だけじゃなくて?人物画だったら、女性の方が良いんじゃないのか?」

「センパイを描きたいんです!本当は今すぐにとも言いたいんですけど、俺、まだ全然下手だし」

俺は頭を掻いて照れを隠した。
コンクールにも入賞できて、もっともっと上手く表現できるくらいにならなければ、この純粋な人を書く資格は無いとそう思う。恐れ多くてキャンバスの前に立ってもらうことなんてできやしない。

「…じゃあ、未来の君が今の情熱を失くさずにいてくれたら…、そしてこのことを忘れずにいてくれたら、その時は引き受けるよ。気が済むまで付き合おう。約束だ」

白い手が差し出されて、俺は僅かばかりに汗ばんだ己の手に一瞬躊躇し、脇腹で拭ってからそれに応じる。触覚で味わう掌は剣道部の部長を二年も勤め上げただけあって硬い皮膚が力強いけれど、見た目同様に造りは繊細で、相反する二面性の魅力をそのまま表しているようだった。

繋がった手は、熱を帯びる前に解けていった。

掛替えの無い時間は夕立の如くあっと言う間に過ぎていった。
縦長に広い公園の桜並木をゆっくりと並んで歩き、出口に辿り着いてしまえば俺とあなたは別々の方向に向かって歩き出すだろう。
桜の木には魔力が宿るとか、魔物が棲むとかそんな寓話を良く目にする。
愚かしくもこの時、俺は心の奥底であやかしを祈った。
このまま二人だけのこの時空を切り取って欲しい。
この人と永遠を彷徨ってみたいと。
しかし現実は無情で常に誠実だ。すぐ目の前の衝立の向こうには有望なあなたの未来が存在している。そして、俺の行く末も。

園を外界と区切る二つの衝立の間を抜けて、あなたは何の躊躇いも無く歩道へと足を着けた。
魔物などいないのだなと苦く思いながら俺もその後に続いた。

「じゃあ、ここで」

この二年間で背丈を追い越してしまった俺を見上げるあなたに、応えられず口を噤む。

「カツヤ?」

首を傾げるあなたに耐え難い衝動を感じた。


抱きしめたい。

あなたを抱きしめたい。

たった一度で良いから…。


自分が同性でありながらも目の前の人に強く惹かれていた事実を、それを偽り続けた日々の積み重ねもきっとこの一瞬の衝撃で脆くひび割れてしまった。
あと少しでこの人に触れてしまえるかもしれない。
鼻の奥が熱く痛む感覚に溺れかけた時、あなたの艶やかな黒髪に一つの桜花がくるくると舞い降りた。花弁ではなく丸ごと。
一つ。また一つ。
あなたもそれに気付いて頭上を見上げた。
視線で現象の根源を探ってみれば、微かなさえずりと共に歩道にまで張り出た枝からそのまた枝へと跳ねる雀の姿があった。戯れにつつかれては千切れて転げ落ちる桜花がそれから幾つも俺達の上に降り注いだ。
躊躇いながら、顎を上げたままのあなたの髪に乗った花を一つ指で救い上げると、それは恐ろしく軽くて些細な風でも舞ってしまいそうほどに頼りない。花柄は無く、がくから上の一番美しい部分だけで構成されている。この質量の無さがこの花を一層に可憐に見せた。
ついと空に伸ばした手で俺の肩から同じもの摘み取ったあなたは、同じことを思っているのか目といわず口といわずを綻ばせてそっと掌を閉じた。中に収まった花が潰れぬように優しく。

「また、この桜の下で会えるといいな」

言葉に胸が跳ね上がる思いがする。

「この季節がいい。お互い酒を酌み返せる歳になっていたら、花見にでも来ようか」

それは予想外の提案だった。花見なんて俗っぽい思想がこの人の中にあったのかと驚いてしまう。付き合ってきた二年の間、一度たりとも誘われたことは無かったのに。そういえば、生徒会の連中に連れられて入ったラーメン屋で麺を啜るこの人を見た時も同じくらいに衝撃を覚えた。否、あの場にいた何人かも物珍しげにその姿を眺めていたから、並外れたお堅い印象を抱いていたのは俺だけでは無い筈だ。

「いいですね、来ましょう!飲めるだけ飲んで、食えるだけ喰いましょう!」

雀と桜に助けられたのは果たして俺か。それともあなたなのか。
吹き荒れた欲求は勢いを削がれて沈静化しつつあった。
俺達が俺達のままであれたことに安堵を覚えてしまった自分も否めない。
抱きしめたいと感じたのも事実。
清き間柄で在りたいと望んだのも、また事実。
相反する感情に揺さぶられて、泡を食う日々はこれからもまた続くかもしれない。俺が俺であり、この人がこの人であるならば、それは幾度でも繰り返される気がした。

ああ、と閃く。

何もあやかしに縋らずとも、俺が永遠を夢見ている限りこの人が俺の人生から消え去ることはないのだから、現実は充分切り取られた空間に匹敵するのではないか。
俺が望むだけ、死ぬまで変わらない。
例えば俺が、或いはこの人が誰かを愛しても、本当に本当に細くて…けれども決して癖千切れない糸がきっと俺達の間に一本通って存在しているのだと…。
ひどく勝手で不毛であっても、そう信じればこの別れにも嘆くことは無い。
俺達は終わりではない。

「じゃあね、カツヤ」

「はい。センパイ」

手を上げて去ってゆく人を同じ仕草で見送って、俺も背中を向けた。
その人は手にした桜花を捨てることなく持ち去った。
俺の掌中にも同じものがある。
こればかりはあやかしの仕業に他ならないかもしれない…




この桜の木の下で再び会う日が来たら、まずあなたを筆で切り取ろう。それから…

それから俺は物の怪の力を借りつつ、千切れぬ糸を手繰り寄せてみるのだ。





                                          終