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俺は彼女の自宅の鍵を取り出し、その形状を押し嵌めるのに寸分の狂いもない鉄穴へと押し込み回した。
今日は月一度の嬉はずかし婚約記念日。真白なバラの花束を抱えてアパートメントの見掛けお上品な扉を押し開けた。彼女はまだ女学生時代の恩師の葬儀から戻ってきては居ないはず。だからノックも確認の声も掛けずに遠慮なくズカズカと上がりこんで、一番始めの扉を開ければそこはダイニングキッチンで。

おや。

思わず立ち止まった。テーブルの上には厭味なほど磨き上げられた二組みのテーカップに小皿が二つ。手前の皿にはクッキーが一枚乗っていた。どう見ても午後のお茶の名残に見える。彼女は昨日早くに此処を出て、今日の夕方にならなければ帰らなかった筈だ。帰宅の予定時刻の一時間前。
彼女の気配は知れぬというのに。

おいおい。ここは本当に我が婚約者のお家だよな?

無駄に冗談めかして首を傾げてみたりする。
記憶と違わぬチェストに、フォトフレームに。室内全ての情報に疑いようはない。
ここは、グレイシアの部屋だ。

だったら、このティーカップ一式は?

目が自然に細まるのを止めようは無かった。

花束をテーーブルに置き、やたら物音を殺して一つ一つの部屋の気配を扉の外から探ってゆく。



構わないのだ。
別に。

ただ、こそこそとした逢引が癪に障るだけだ。



最後に一番奥の寝室が残った。

きしり、と物音がする。

くぐもった笑い声。
これは彼女のものだろう。

扉を開けることに躊躇いはなかった。


そこに彼女と誰がいるかくらい、わかりきっている。

何を見ようと、俺の『愛情』が薄れることなどないと、確固たる自負があるのだから。



それでも、曝け出された室内の惨状に正直気が滅入ってしまった。




まず俺の位置から見てヘッドボードは右側に配置されたベッドがあり、その周囲には男女洋服と下着が脱ぎ捨てられていた。そして、控えめに響く振動音が室内の異様さを更に強めている。


シーツに仰向けの姿勢で横たわる黒髪の男が、両腕を頭上に追いやる形でヘッドボードに繋がれていた。緑色のてかったリボンがしっかりと結わえられているが、鬱血の様子はないので血管を締め付けるほどの戒めではないのだろう。
此方は向いていない。ただ、酷く震えているのはわかる。

女、グレイシアは四つん這いで男の様子を見下ろしている。

当然ながら、二人は素っ裸だ。

当然だ。


男の生白い左大腿には安っぽいプラスチックケースを引っ付けた形でガムテープが巻かれていた。

小さなモーター音は、やっぱりアレなんだろう。


指の間接を白く浮き上がらせてぶるぶると震える男の拳から視線を外した俺を、婚約者の無機質な瞳がやっと捉える。

「あら、随分早いのね。マース」

本当に、日常の会話と変わらぬ声音で紡がれた言葉には淀み等微塵も無く。
びくりと、男の痩せた肩が哀れな程に跳ねた。

「時間があいたんでな。君こそお早い帰宅じゃないか」
「向こうでお友達と会う約束をしていたのだけれど、急用とかでキャンセルされちゃったのよ」
「それはそれは」

悪びれるでもなく答える彼女の面の皮の厚さには本当に感心してしまう。
否、事実何も感じていないのだろう。こうして此処に俺が存在することになど。

「折角だから、貴方も混ざらない?」
「や、遠慮しとく。二人掛かりじゃちっとばかし可哀相だ」

俺は肩を竦めておどけて見せた。

「そう。残念ね。少し待っていてくれる?まだ」

女のたおやかな右手が男の股の奥へと滑り込んだ。肝心の部分は死角になって見えないが、女の指先が辿り着いた場所を思い描くことは容易い。

「この子を後ろでいかせてないの。中だけでいかないと満足できないのよね。ねぇ、ロイ」

答えることもできずにただ打ちひしがれている男を眺める女の美しい横顔が初めて笑った。酷く嬉しそうに。幸せそうに。


まるで、天子を抱く聖母のような、盲執に全てを委ねた狂気の微笑に俺の口許も歪んだ。

こんな人間に取り憑かれた親友の。今こうして嬲られているロイの嘆きを想像すると堪らなくなる。
みっともなく股間が膨らんだが、放置を決め込むことにした。
この凶暴な気分が実は心地よかったりするのだ。

「ほどほどにな。ロイの体力、残しておいてくれよ」

俺の為に。

寝室に背を向け様に厭らしく笑ってやれば、女もまた口角を釣上げて笑う。

「そんな気遣い必要かしら。疲労なんて関係ないでしょう、この子には」

貴方が望むなら、幾等でも昇り詰めてしまうのでしょう?

そこには先程の神性は微塵もない。嫌な笑い方はただの俗物だった。

相手が俺だから、か。

本当にイイオンナだ。





寝室を後にした俺は、勝手知ったるキッチンからアルコールとナッツ缶を失敬し、リビングのソファーにどかりと腰を下ろして目の前のローテーブルにそれらを置いた。

婚約者は休日ともなれば朝からワインを嗜む酒豪の上、味にも煩い。ちびりと口を付けたウィスキーは芳醇な香りとスパイシーな味わいを楽しめる逸品だった。
適当に選んだのはまずかったかもしれないと思いつつ、適当に謝ったって多少割高な見返りを求められる程度で済んでしまうだろうことは心得ているので遠慮なく煽った。その程度には彼女の事を理解していた。

流石にその全てを把握するまでには至ってはおらず、刺激的な光景を目撃する破目になったのだが。

あと一ヶ月もすれば花嫁の衣装を美しく纏うであろう女のすることではないし、それどころか男女の正常なセックスですらなかった。婚約者の親友を縛り付けて辱めているのだ。あれは、一歩間違えば暴力とも取れる狂気の沙汰だ。親友の肢体の震えに危うく手を差し伸べてしまうところであった。
しかし、それはルール違反だと一瞬の内に考え直して俺はあの腐敗手前の空気の充満する部屋に背を向けた。

何故なら、俺自身彼女と付き合う以前からは勿論、婚約した後も親友と身体を繋げていたのだから。

そして、彼女と親友を引き合わせてしまったのも己で、自分と良く似た性質を持つ彼女が親友に対してどのような感情を抱くのかも、予想はできていた。
親友を目にした瞬間の彼女の瞳は忘れられるものではない。
幾通りもの男の理想を演じきれる、厚いベールを何枚も被った彼女の蒼い瞳から一切の幕が剥がれ落ち爛々と輝いたのだ。それは獲物を前にした捕食者の興奮と恍惚を現していた。
親友と初めて対面した時の己もあんな瞳をしていたのだろうかとゾッとしたのを覚えている。
最高の獲物に向けられた彼女の微笑は壮絶に美しかった。
だからこそ、選んだのだ。
女なら、こいつだと。

故に彼女を愛しているし、彼女以外の伴侶など想像もつきはしない。きっと飽きることの無いスリルが一生続くであろうという確信は酷く魅力的であった。
けれど、それ以前より愛も慾も惜しみなく注いでいた親友を手放す気には到底なれず、彼自身を巻き込むことで、俺は全てを手に入れようとしたのだ。
親友をこれから先も抱き続けたい。ならば彼女にもそれを許せばいいと、そんな短絡的な筋書きである。
彼女は賢い女だった。すぐさまその意図に気付き、親友に手を掛けたのは僅か三日後の事。
自宅に押し入り蒼い顔をした親友の手首を取り袖をずらすとそこは括られた痕くっきりと残り変色していた。グレイシアと連絡が取れなかったことを伝えれば、整った顔が辛そうに歪んで、自分に対してそうだったように、彼女を拒めなかっただろうことを匂わせた。フェミニストでもあって尚更、力を翳して退けることが叶わなかったのだろう。
全部わかってて、俺は親友を差し出したのだ。
自分自身が何時の時代も幸福である為に。
すまない、と抱き締めた身体が強張り、宥めるようにその肩を撫でながら、彼女を許してくれと尚も続け、俺は親友から逃げ道を奪った。
私はどうすればいいと、くぐもった声音には怯えと戸惑いが色濃く滲んでいたが。そこに拒絶の意思は見当たらず、それは親友が彼女を受け入れ始めていた何よりの証拠で、その事に嫉妬を感じ荒々しく唇を塞いだ。身勝手にも程があると、頭の隅で思いながらも…。

それから、こんなイカレタ関係が続いている。

普段は親友が意図して彼女との交わりの名残が消えた頃にしか身体を見せなかったので想像が付かなかったが、確かにあれは隠しておきたくもなると苦笑いせずにはいられない。
男が女に組み敷かれる。自分より弱く繊細な体躯に身体を暴かれる。普通ならば羞恥しか生まぬ場所を抉られ、あまつさえ悶えるなど、どれも屈辱でしかない。
俺なら、死ぬな。
グラスに口を付けた。
名誉の為に言っておけば親友は決してプライドの低い人間ではない。一国の頂点を奪取する野望を掲げているくらいの無頼漢でもある。ただ、一旦懐に入れてしまった人間に関しては、際限の無い優しさで深く深く包み込み、歪んだ性質も、爛れた思想も全て許してしまう。そういう危険な男なのだ。
そう考えれば、踊らされているのは自分達の方なのかもしれない。

思考も味覚も甘く痺れて口許が緩んだ。

僅かなアルコールにも酔ってしまいそうだ。

そろそろ散々泣かされ赤く染まった目元を緩めた親友が、解かれた両腕でグレイシアを抱き締めている頃だろう。欲を吐き出して満足した俺の表情を親友が好んでいるので想像がついた。最後はしっかり挿入ができたのだろうかなどと下世話な心配もしてみたが、彼らには彼らなりの手段があって構わないのだから考えるのはやめた。それよりも、グレイシアによってトロトロに解されたであろう親友の内部の具合に思いを馳せる。


可哀相だが、やっぱり今夜はロイの奴を苛めてやろう。
俺を除け者にしようとした罰だ。


例えグレイシアの意図であってもそれは俺の知るところではない。俺は自分の欲望を満たす為ならば実に都合よく事実を緞帳の向こうに追い遣れる人間であり、今はただ舞台にロイ・マスタングという艶やかな華を添える理由だけを欲している。


「生きるってのは実に素晴らしい」


眼前にグラスを翳し、揺れる琥珀に目を眇めて笑んだ。