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数回のノックの後に嬉しげに弾む声音が己を呼ぶのにナミは少し口角を上げて答える。
「入って良いわよ」
そうして許しを得た人物は軽やかな言葉と違わぬ足取りで女部屋へと降りてきた。
決して広くは無い室内に紅茶と焼き菓子の甘い匂いが漂い、ソファーで寛ぎつつ新聞に眼を通していたナミは小腹の空き具合を実感して給仕する男の手元のトレーを見上げ、次に男の容貌に視線を向けた。
ナミに向ける浮付いた態度に負けず劣らず軽そうな金色の頭(ふわりとした髪と相まってその脳味噌もまた軽量に見える)と小作りな顔。その白い面の左上半分を長い前髪が覆っていて、口ほどに物を言う瞳の一つはほぼ完全に隠れる形となり覗き見ることも叶わない。右眼は涼しげなスカイブルーで少々の陰りではその存在が翳むことはないのだから、左眼の方はもしかしたら色合いが違っているのかもしれない。…とナミ個人は推測している。
長い睫とくるくると表情を変える眼差しに乗っかる眉毛は尻がクイと上がり、良く見ればロールケーキの如く巻いていて、まるで特殊メイクの様だった。しかしそれは整い過ぎた容貌に反する砕けたイメージを添える愛嬌となり、見る者に親しみを抱かせる。細い首から下はきっちりと着込まれた黒尽くめのスーツだが、シャツの襟元をぱっくりと開けた着こなしはどこぞホストを彷彿させた。
そんな感想を瞬間的に脳裏で整理したナミは大した間をおかずに手にしていた新聞を折り畳む作業に移ったので、不躾な視線で観察されたことになど目の前の男は気付かずにへらへらと笑いながら紅茶と茶菓子をテーブルに並べている。薄い色合いの紅茶はナミのリクエストによるものだ。最近雑誌で何かと騒がれているステインを気にしての要望だが、そんな時化た悩みは億尾にも出さず只色の薄い紅茶を所望して、目の前の男は首を傾げながらも「じゃあ、次の港で仕入れるね」と素直に返答を返し、今日の午後のティータイムにはグリーンティーを用意するからねとハートを飛ばしまくっていた。
理由などは一切聞かない。聡明なナミの言うことに男は決して逆らわなかった。
本当にアホなヤツ。
そう酷評しながらも、二つ年上のこの男を本音で言えば気に入っている。
ちょこちょこと動き回り、あれやこれやと身の回りの世話をして、ナミの容姿を、性格を、それら全てを褒めちぎって、本当に至れり尽くせりだ。ここまで女を持ち上げられる男はそうは居ないだろう。そうナミに言わしめる最大の理由は男が見返りすら求めていない部分にある。
何かをしてあげている、とかでは無く。
何かをさせて貰っている。
男はいつだってそんなスタンスでナミに傅いているのだ。
心の底から愛して止まないのだと、隠しもせず恥らうことすらせずに語る瞳はとても美しく輝いた。
出逢った当初はこんな調子に対して何てお安い男だろうと軽蔑すらして、彼が副店長を勤めていたレストランでの食事代を抱擁一つでチャラにさせたナミも絆されたって仕方がないだろう。
ナミ自身そこいらの女より秀でた容姿であった為に、異性にちやほやされる事は少なくなかった。派手なオレンジ色の髪や大きな瞳、それに護身術や盗賊業で養ったスレンダーな体型に似合わぬ大きく張り出た形の良い胸部は只其処にあるだけで男達の目を惹いた。
厭らしく言い寄ってくる輩らは遠慮なくたかってやったし、女を武器に、時には盾にして荒くれ共から金を奪い宝を奪い船から船を渡り歩いて、そうやって生きてきた。
だから、ナミにとって目の前の金髪男は本来唾棄すべき性質の人間である筈なのに。
なのに、可愛いのだ。
どんな求愛にも答えぬどころか無碍にし足蹴にしさんざんたる扱いをしてやっても、男は懲りずにナミの名を甘く呼ぶ。
それどころか…。
この男はナミの為に命を張って闘った。
悪しき魚人に支配されていた故郷を守る為とは言え仲間を裏切ったナミに、その秘めた理由を知らず刃を向けた剣士を、同じように何も知らされていなかったのに男は牽制してナミを守り、また過酷な過去と状況を知った後は救いたいと息巻きいて血反吐を吐きながら魚人に立ち向かった。
アタマの軽い、誑しの最低な男は、
情の深い、不器用な男へと変貌して。
眩暈がしそう。
この男の垂れ流す愛は毒だ。
ナミを大いに戸惑わせた。
しかし、サンジがどれ程手厚くナミを持て成したところで、それが比類なき最上の扱いではないのだと、そう気付かされたのは二人が居住するこの小さな海賊船が新たなる航海を始めて一週間も経った頃だろうか。
グランドライン手前で昔の記憶に囚われた哀れなクジラの腹の中で出逢った少女ビビにも彼は同じように懐を晒して求愛した。そこまでなら只の女狂いで通る。しかし、当時素性の知れなかった不審者にナミに命ぜられるでもなく暖かなココアを差し出し、備え付けの毛布を引っ張り出して彼女に羽織らせエスコートしコックである彼の城へと案内したのだ。
ラウンジが一番暖かいんだ。
これ、カイロ代わりにして。
その世話を焼く表情の柔らかさにナミの心は不安を募らせた。
海に落ち半渇き被服のままの少女を成り行きで乗せ(ナミには着替えを貸してやろうという愁傷な気持ちは無かったし、彼が用意した未使用のシャツは気を張っていた彼女にそっけなく断られた)、冬島付近を航海していた時に彼の差し出した物がコンロで熱し布で包んだ鉄くずだと知ったのは、その後同じく成り行きで仲間となった彼女がはにかみながら明かしてくれたからだ。
不思議な人。無条件で優しくしてれた…。あんな人もいるのね。
あの日を再現するかの様にココアの注がれたカップを大事そうに両手に包んで呟いた少女を前にしたナミは胸の辺りに靄靄と不快感を覚えた。
ナミの時と同じだ。少しも特別では無かった。
その男にとって、女という生き物全てが神なのだ。
ナミだけが神聖なのではない。
女には誰にでもああなのよと、気が付けば吐き出してしまっていて、ナミは慌てて口を噤んだ。
その不自然さを気に止める事のなかった少女は蒼銀の髪を揺らして可笑しそうに笑い、それからふと困った顔をして言った。
私がどうしようもない悪人だったら、彼どうするつもりだったのかしら。
ちょっと、心配になっちゃう。…余計かしら。
大人びた外見をしていても彼女はまだ十四しか歳を数えてはおらず、そんな幼い者にまで心を砕かせる男とは正直どうなのだろう。
しかし、それはナミも抱えた不安だ。否、不信と言ってもいい。もし敵対者が最低最悪な女で、男の甘さが仲間に危険を及ぼしたとしたら…。
所詮、フェミニストを気取ったところで自己満足に過ぎないのだと男は気付いているのだろうか。
もし、この少女が男自身に刃を向けたなら…或いはナミに危害を加えるような人間だったならば。精一杯の優しさにも答えることのない矯正不能な程に歪みきった女であったならば、あの男は傷付いただろうか。
現実を知り、少しは学習しただろうか。
女は只美しいだけの生き物ではないと。
どうでも良いわよ。こっちに被害が及ばなければ。
ぼやきながら読んでいた雑誌に視線を落としてビーチチェアーに深く身を沈めると、隣りで寛いでいた少女からナミさんたら…と苦笑いが漏れ、青年と同じ扱いをされてしまった事に少し居たたまれなさを感じた。