現在船長ルフィ率いるナミ達麦藁海賊団は、ビビの故郷であるアルバスタ王国へと向かう途中の小さな島の港町に停泊していた。帆を畳んだ上に羊のフィギュアヘッドが聳えるキャラベル船など凡そ海賊には見えないようで、行き交う島民は見向きもしない。
二人の居残り組みとその他外泊組みとで別れ、一晩毎交代見張りを変わってログが溜まるまでの二日間を過ごす手筈だ。
そして、初日の居残り組みは、ナミとこの船のコックである件の青年サンジだった。

「今夜はナミさんと二人っきりで船番かぁ。嬉しいなぁ」

トレーを胸元に抱え、うっとりと目を閉じ頬を赤らめる男ははっきり言って不細工だ。
顔の造形は極上の部類に入るというのに何故態々崩してしまうのだろうとナミはいつも思う。
にひゃりと上がった口角と微妙に伸びた鼻の下。何とか成らないものか。

残念だけれど、私の見たいのはそんなブスヅラじゃないの。

冷めた視線を投げやりながら、男の淹れた紅茶を口にした。

「おいしい」

一瞬、風に吹かれたが如く捻くれた思考が飛んで思わず呟く。
するりとした口当たりと爽やかな後味に肥大した脳神経が洗い流され鎮まった。ほんの一瞬の出来事だ。けれど抗えもせず支配を受ける恐ろしくも甘美な瞬間だった。
そうして自然と溜息が漏れ、全身の筋肉が弛緩する。
ちらりと見上げれば、先程の崩れきったパーツが嘘のように綺麗に笑うサンジがいる。
幸せそうな顔。
事実、今この男は満たされているのだろう。

おいしい、は魔法の言葉だ。

それだけで骨の髄までコックであるこの男は幸福に溺れてしまえるのだから、何と安上がりなことか。
そして、この言葉さえ使いこなせば女に限らず男でも彼を幸せにできた。おいしい、うまいと抑えきれず喚きながら貪り食う船長に喋るか喰うかのどちらかにしろと怒りながらも満足気な顔をする。
しょうがねぇ野郎だなどと言って、幸せそうだ。
毎日、毎食、存分に愛された人間みたいな顔をするのが、少し恐い気がした。

食事と言う行為に付随する全てにおいて、酷く無防備になるこの男の異質に戸惑う。
誘われている気分になる。
開かれる懐に吸い寄せられる気がする。
自分だけだろうか。

否、気付いている者は居る筈だ。

例えば、あの男。


「ね、ナミさん、今晩は何がいい?何でも言って。ナミさんの好きな物フルコースで用意するから!」

目の前の女の思考が仄暗く染まりゆく事実になど気付ける筈もないサンジが、子供っぽく身を乗り出してリクエストを求めた。

ナミは少し考える素振りを見せ、

「そうねこってりとしたパスタが良いわ。でも手間掛けなくても良いわよ。私今すっごく暇だから」

意味深な言葉を吐く。

暇だからと繋がったナミの言葉が理解できずに、サンジは首を傾げた。流石に通常通り「はぁ〜い、ナミさんv」などとひよる訳にはいかなかったらしい。
良く出来ましたと言わんばかりの気持ちで笑みを返したナミが謎掛けの答えを明かした。

「本も雑誌も読み終わっちゃって何にもすることが無いのよね。偶にはチェスでも付き合って。夕食はその後作れる物でいいわ」

「んー。それは良いけど、大丈夫かい?見張り二人が部屋に閉じ篭っちまって」

「平気よ。この島は産業規模が小さいから政府の息もかかってないし、海賊も居ないみたいだし。それに、滅多に無いじゃない?二人っきりで優雅にゲームなんて」

『二人っきりで』の部分を強調しながら、上目遣いでサンジの瞳を見上げた。
女の武器。女の特権という奴だ。
男であるならコレで堕ちない筈がない。
堕ちなければ、サンジではない。

「んはあぁ〜い!仰せのままに。俺は貴女の下僕ですからー!!」

色気をたっぷり含んだナミの仕草は軽く沸点を突いてしまったようで、一気にテンションの上がったサンジが鼻の穴を膨らませながらグ○コのポーズを取るも、当初の目的を果たしたナミはそんな大袈裟なボディランゲージをあっさりと無視し、棚からチェスのセットを取り出して備え付けのバーカウンターへと広げる。釣った魚には餌をやらない主義なのだ。

「ただのチェスじゃつまらないから、罰ゲームをつけましょう。ん、ありがと」

側に置かれたティーカップの礼を言いながら、ナミが所定の位置に駒を配置してゆく。

「罰ゲーム?」

僅かばかり緊張した面持ちで男は隣りのスツールに腰を降ろした。

「まぁ在り来たりに敗者は勝者の言うことを聞くって所ね。サンジ君もお茶を用意したら?待ってたげるから」

「じゃあ、お言葉に甘えて!」

湯を足してくるからとポットをトレーに控えたサンジが心なしか浮き立った歩みで階段を昇ってゆくのをナミの琥珀色の瞳がじっと見送った。
扉の向こうに消えた男は今頃ゲームの勝者になったつもりで小躍りしているかもしれない。
あんなフェミニストがどこまで要求しようとするのか気にならないでもない…が。
そんな自分には何の特にもならない好奇心はさっさと殺す事にして、部屋の隅に紛れる様ひっそりと置かれたアンティークチェアーに目をやる。この船に唯一存在する肘掛付きの椅子。繊細な細工が施されているそれは、この船の前所有者であった病弱な少女のお気に入りであったのかもしれない。彼女は仲間の一人、ウソップの幼馴染である。
それを使って自分が何をしようとしているのか知ったらウソップはどんな顔をするだろう。
あの少女にも申し訳ないと思わないでもない。

それでも。

背凭れの骨組み。
肘掛の頑丈さ。

おあつらえ向きなのだから仕方が無い。

暗く影に紛れる椅子に視線を送りながら、ナミは甘い紅茶を含んだ。