ティーカップとポットのセットをトレーに乗せたサンジが女部屋に戻ってゲームは始まった。
ナミは一つの駒を外からはわからぬよう掌中に収めてサンジの前に翳す。サンジは暫し迷ってナミの右手を差した。
にっと笑って開かれた右の薄い掌は空で、サンジの求めた白のポーンは左手にあった。それは男の後手を意味していた。
チェスのルールでは白が先手である。二人の間に置かれた当初から盤上の白の陣はナミの側に敷かれており、初めから自分が先手を切ると『決めて』いたのだと伺える。駒を隠す為に背後に手を回さずとも、スリや盗賊家業で培った技術が見破られる事はない。右手が駒を捉えたと見せ掛ける為に一瞬駒の移動を遅らせ、更に錯覚を利用しつつ素早く左に持ち替えたのだ。だが、そんな意図を知ってか知らずか、前座とも言うべきこの遊戯においてナミの技術を見抜けるとは自身も思っていなかったようで、男はやっぱ適わねぇやと潔く後手を受け入れた。

サンジが興味津々といった表情で中央より左の升に立つ白き歩兵が二つ進むのを眺める。そして、自身は先陣を切った白の直線状にある同種の兵士を二つ進めて真正面に置く。次にナミは左のビショップを右斜め上四つ目の升に置き、サンジは自身から見て最前列左端の駒を一つ進めた。

勝負は腕に自信のあったナミの予想を遥かに上回り、二三十手で終わらせるつもりが六十手越えの長丁場となった。
男の筋にはムラがあり、ふわりとかわされたかと思えば、強引な攻めをみせる。先の先を読んだ巧妙な一手を打ったかと思えば、微妙に隙を見せて駒を失くした。其処にパターンがあれば集中力の途切れとも取れるし弱点も突けただろう。
しかし、ナミにはゲームの流れを読み取ることが最後までできなかった。
場を掌握できなかったのだ。これはそこそこの技量と観察眼を持ったナミにはとても珍しいことだ。お遊びと高を括っていたのはせいぜい十数手までで、これまで全勝…とまではいかずともほぼ勝ち戦だったナミが久々に緊張感と興奮を覚える勝負であった。
結果はナミの勝利であったが、常に有利に事を進めねば気の済まない性格である為に、思うままの進行ができず唇を尖らせた。

「流石ナミさんだ。強ぇーや」

「あんたこそ、割りとやるのね」

冷め切っていても口当たりの良い紅茶を口腔に流しいれ、萎れて元気を失くしたサンジを見る。

「ねぇ、ナミさん。もうワンゲー…」

「却下」

こんな疲れる勝負、今は御免だ。
しかし、男は諦め切れないのか、うーと呻いて泣きそうな顔をしている。非常に子供っぽい。

「折角ナミさんから初めてのキスが貰えると思ったのに。ほっぺにチュッvて…」

ほっぺかよ。

余りの志の低さに苦笑いが漏れた。
とても十九の男の抱く願望とは思えないが、出逢った当初首に抱きついてやっただけで舞い上がって満足しきった男だ。あれから手すら握られていないのだから、条件としては妥当なところなのか。

本当に、そんなんだから…。

この男の純粋さが酷く癇に障る時がある。

仲間となった少女を貶め、これならどうだと突きつけてやりたいと想像したあの陰惨とした気分にナミは度々悩まされてきた。
何かの拍子に突出するそれが連続したなら、何時しか限界は訪れてしまうだろう。例え思う側から掻き消そうとも、拭い切れぬわだかまりは確実に蓄積されるものなのだ。

…否、只純粋なだけならば、経験の少ない発育途上の若者として無理矢理でも納得したかもしれない。
聞けば、男は住処としていた海上レストランから殆ど外に出たことがないのだという。
従業員の宿舎が併設されていたから買出し以外で陸に上がる必要が無かった上に周囲は荒くれコックばかりで女っ気もなく、異性との交遊も忙しく立ち回るサンジに声を掛けられる情熱的な女か、運良くナンパできても絶海を眺めながらの休憩時間を挟んだ暫しの会話、お茶やワインを一杯二杯…くらいに限られていたらしい。
それでも日々を料理と接客に捧げていたので誘われても答えられないことが多かったし、上手く時間が取れて陸にエスコートできても、門限が決められていた為に(此処で、門限なんてあったのと声を上げてしまい、驚いて萎縮したサンジに謝る羽目になってしまった)せいぜいお喋りや舞台の鑑賞で終わってしまったのだと、五日前仕込みの途中で半ば無理矢理付き合わせた晩酌時に恥ずかしそうにサンジは語った。

だから、女の子とこんなに長い時間を過ごせるなんて夢みたいだと、思春期を迎えたばかりの少年みたいな事を言うサンジに、ナミとこれまた付き合わされた感で飲んでいたビビは大いに喜んだ。

安心なさい、あたし達があんたを立派な男にしてやるから!…そう声高々に宣言したナミもその日は僅かばかり飲み過ぎていたのかもしれない。勢いのまま首に細腕を巻きつければ、男の頬は酔いのせいばかりでなく真っ赤に染まり、ビビと二人して大笑いした。

いざ迫られるとどうして良いかわからないといった風に戸惑う表情が堪らなく愛しかった。
今でもそう思う。

だが、ナミは見てしまったのだ。

この男はあの日…。

やおら立ち上がったナミは壁際のソファーとクローゼットに挟まれる形で暗がりと同化していたアンティークチェアーを灯りの下に引き摺り出した。そこそこ高価な骨董であることは頑丈な骨組みに繊細な細工を施されていることからも伺える。高い背凭れには蔦をデフォルメした大きな抜きが縦に二つ走っており、幅広の肘掛の先端は見事な流曲を描いて内側へと流れている。流れはそのまま下へと伸びて肘掛の支えとなり座面の脇を通って頑丈な前脚へと変化していた。細工は美しいが大振りである事に加え、重量のある材質を用いており、そこいらの女よりは腕力のあるナミでも移動させるのに骨を折った。

「さぁ、罰ゲームといきましょうか。まず、此処に座って」

罰の言葉に僅かに緊張したサンジに、ナミは背凭れを軽く叩きながらにっこりと微笑みかける。
察しの良い者ならば間違いなく警戒する、表層のみを整えた軽薄な笑みであったが、女の柔らかな面一つで瞬時に天国を覗ける特殊な人間であるサンジにそのきな臭さが伝わることはなかった。
そういう意味で、ナミにとってこの男は非常に扱い易い。
ナミの言葉を疑わないのではなく、女の言の葉であるから男は大切に集める。意識すらしていないだろう。条件反射、生理現象と読んでも差し支えないのではなかろうか。
だから、憎らしくもあった。
異性限定であれど、八方美人も甚だしい。

…異性限定。

その認識に誤りは無いのか。

それを確かめるべく、ナミは罠を張ったのだ。男に知られず張り巡らせた粘液質の銀糸は、チェスのゲームを始めた時点で放射を軸とし渦を巻きながら見事な形状を完成させつつあった。