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恐ろしい雷雨を遣り過ごそうと身を縮めて耐える本能的な拒絶を感じ取り、何をしても無駄なのだと、それをやっと理解する。男とナミを繋いでいた快楽のパイプラインが次々と切断されてゆくのかわかった。
嫌だ!と叫んでしまいそうだった。
先程までは遠くでざわめくだけだった男を傷付けている現実が一瞬で押し寄せたのだ。本来の環境に戻った世界で異質なのは間違いなく倫理を侵しているナミであり、その事実は形容し難い孤独を齎した。
急激な変化に精神が圧迫され、臓腑を巡る血管までも収縮して体温が下がりゆく感覚に呆然とする。
指先は、相変わらず小さな痺れが走ったままだ。

「私にされるのが嫌なの?」

無様にも、指先が震えて肉の蕾を弄ってはいられず、両手をそっと遠ざけて男の様子を伺った。
平時とは全く異なる状況下ではあったが、それでもサンジの底無しの愛情を信じるナミの自尊心は確固たる否定を疑わず、男がどのように返すのか焦れた心持ちで待つ。

「ゾロじゃなきゃ、嫌?」

だが、サンジはこうべを垂れてどちらの問いにも答えない。
被食者に心情の同調を示してしまった時点で、捕食者としての身勝手な解釈は支配力を失い、只真実のみが存在意義の比重を重くする。
ナミはサンジの意思を読み取ることができず、また場を掌握する者の地位から弾き出された。

あの野蛮な男には全てを曝け出すのだろうか。

疑心の邪気は容易くナミの精神に侵食し、細胞を喰らう細菌の如く増殖し始める。

−−−まだ、出逢ってから僅かな時間しか経過していないのに、馬鹿な。

言葉を淀みなく形にできた事だけが、ナミの気丈の支えだった。
それだけで、膝が笑う事無く背筋を伸ばしていられる。

男の整わぬ息遣いだけが、空間を支配した。

何て狭くて、空気の重い部屋だろうと唐突に考えるナミの視線の先で、うなだれた男が震える声でぽつりと呟いた。

「俺がこんな身体だって、ナミさんには知られたくなかったな…」

金糸をゆるゆるともたげ、男はやっとナミの姿を捉える。

男は笑っていた。
とても寂しそうに恥じ入りながらも、本気の陵辱を試みた女に意識の全てを向けている。
雄としての矜持を手折られた筈なのに。
ナミの問いへの答えは要領を得ぬが、その面に乗せられた表情は母親の態度に怯える子供に通じる先程見せた笑みを思い起こさせた。

男が尚、ナミには笑って欲しいと望んでいることを知り、愕然とした。

この僅かな時間でナミは男の崇拝対象になっていたであろう美しい殻を脱ぎ捨てたというのに、醜く剥けた姿を前にしても男の眼差しに滲む憧憬の念には少しの遜色も無い。

こんなにも変わらないものが存在するのか。

また、ナミの孤独が深まった。
ゾロを選んだかどうかなど取るに足らぬことだ。
男とナミとでは元より存在する世界の基軸が違う。

触れても相容れぬ人間。


ナミの呼び込んだ事態の結末は想像していたものよりずっと重く、時を凍えさせた。
男が、こんな。
こんな風に傷付くなどとは思っていなかったのだと、醜い言い訳が口を突いてでそうになり、必死に唇を引き結ぶ。それは現状を更に汚らしく塗り潰してしまう行為に他ならず、今は平時を取り戻す事の方が先決なのだ。ナミは黙って男の後部に回り込み、左手首のロープを解いた。同じように右に移り右手首と右足を解放する。
俯いた男がゆっくりと脚を下ろし、放置された靴に爪先を滑り込ませる動作を目で追う。
沈黙が心臓を強く圧迫するが、取り乱したくはなくてじっと男の下す審判を待った。
男が笑っても、例え怒っても、ナミには裁きでしかない。
一般的な強姦の認識でいえば未遂とは言え、…否、未遂と逃れるにも男の肉体を弄び過ぎた感はあるが、兎も角ナミには男を暴行しているというはっきりとした認識があったのだ。恐らくは男の見の振り方に加え、自己嫌悪感にも追い詰められるに違いない。

椅子から立ち上がった男の前髪がその表情を隠してしまっていて、常々気障でうっとおしいと感じていたそれが、矢張りどうにも邪魔だとナミは思った。沈黙も無反応も辛いのに、表情という感情の情報源を覆い隠されてしまっている事実に苛立ちが生じて、自然と目尻が釣り上がるのをナミには止められない。


私は、私でしかない…か。


何を言おうとも男を傷付けてしまいそうであっても、こんな状態のままのナミを放ってこの饐えた空間を退こうとする男が憎らしく、何事をも捨て去るかの如くカウンターに放置してあった銀のトレイに手を掛ける背中に、遂にナミは言葉をぶつけた。


「私のコト、嫌いになった?」


短い台詞を言い終え、その中身に反吐が出そうになるのをナミは耐える。

どこまで、ずるい女なのか。
ナミを決して傷付けず、笑っていてと願う、そんな男に対して余りに卑怯な問いだ。
その答えを形にさせようなど。
この期に及んで。

それでも、そんな言葉しかナミには思い浮かばなかった。口の上手さや知能の高さなど何の役にも立たちはしない。そしてただ、痩せた男の黒衣の背中に答えを求め再び沈黙した。探る訳でもなく、ただ受身に徹して待つなど久しくなかったと頭の片隅で考えながら、思考が逃避を望んで居ることに気付く。

金色の髪を微かに揺らして振り返る男がこれから齎すであろう事態に、不明瞭な期待を抱いてナミは息を呑む。
少し青褪めた顔で男は矢張り笑っていた。


「ナミさんは、俺の女神だから…」


ボタンの弾け飛んだ上着が剥き出しにされたその痩肩に正され、現実世界を取り戻しつつある男の言葉は静かに紡がれる。金色の留め具が欠けていることを除けば、身形だけは何時ものサンジと変わらなかった。

「でも、こういう遊びは、もう無しな」

最後に不自然に表情を綻ばせて、今度こそ男は振り返らずに外界へと繋がる階段を昇っていった。