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ナミは咽許に張り付いていた呼気の塊を吐き出し、そのままバーカウンターの向かいの壁際に置いたソファーに腰を降ろした。そうして、くたびれた仕草で顔を覆う。これまでにない恍惚を味わい、けれどそれを与えてくれた対象とは決して相容れる事はなく。夢現の快楽は対象の拒絶によって破られ、ナミの世界にはぐずぐずと燻る得体の知れないわだかまりだけが残った。
−−−何をしているんだろう、あたし…
俯いた面を上げられず、暫くの間じっと目を閉じて纏まらぬ思考を巡らせる。
どれだけ考えても答えなど見付からぬと、光明の差す気配すら掴めぬ事からも漠然と理解できるのに、ナミの脳裏では様々な場面が繰り返し映し出されている。
脳味噌の足りなそうな笑顔。
信じきった蒼い眼差し。
美しい作りの面。
黄金色の髪。
縛られた手足。
千切れたボタン。
黒生地に覆われた深部。
涙と、
淋しそうな…笑顔。
ナミは仲間の一人を…。ナミを崇拝ともまごう思念で慕う男を、個人的な醜い感情から手酷く痛めつけた。
陰湿な苛めとも違う、更に矜持を手折る行為は間違いなく辱めであった。
男の肉体を拘束し、弄び、喘がせ、そして泣かせたのだ。
プライドの高い男であったのに、それでもナミは許されてしまった。
ナミが女であったから。
−−−この先、どんな顔をしてあいつと過ごせばいいのよ
一度航海に出てしまえば、ナミ達海賊団の所有するこの狭い船の中だけが世界となる。しかも、ナミが傷付けた男、サンジは食事の全てを取り仕切るコックであったから、毎食ラウンジで顔を合わせねばならないし、よしんば互いの視界に入る事無く過ごせたとしても、スプーンで掬った食事を口に運ぶ毎に男を連想せずにいられないだろう。
これが、昼寝と鍛錬しか脳のない筋肉馬鹿の剣士だったなら、ずっと楽に無難な距離を獲得できたのにと、顔を覆ったまま苦く笑った。
−−−あいつのせいで…
ゾロという仲間の一人の剣士がサンジを乳繰る場面に遭遇してしまった事がそもそもの発端であった。
ナミを救うべく命がけで魚人と戦った経緯のあるサンジは、女とみれば手当たり次第に口説く困った性質の持ち主であったから、他に男しか居なければ当然ナミ一人に美辞麗句が降り注ぐ。蒼い瞳に見つめられつつのリップサービス。ナミは己が特別な扱いをされているのだと思い込んだ。しかし、一時的に乗船している少女にも男が全く同じ態度を示した事で、腹立たしいが裏切られたと感じてしまったのだ。
そして、異性経験の希薄な半生を語り、ナミのサンジに対するイメージを淡い色彩に染め上げ…。
そこに来て昨夜の濡れ場である。
偶々通りかかったラウンジで、屈強な剣士に弄ばれながらサンジは淫らに身をしならせていた。それを窓から覗き見てしまったナミの驚きは当然半端なものではない。
二人とも大して着衣に乱れはなかったが、剣士の指はサンジのトラウザーズの谷間に潜り込み、陰嚢の下の会陰部をしつこく押さえ込んでいるのが見えた。そして何度も、これ以上ないという位に痩身は仰け反って、扉一枚隔てたナミに絶頂を見せ付けたのだ。女に平等な愛を振りまいた優男は、軟派な外見に似合わず色事においては控え目であった筈。だが、現実に見た男の本質はそこから遥かに懸け離れていていた。
否、女に関してだけ、彼は清潔であろうとしていたのだ。
そのような男に少なからず振り回されたのだから悔しいに決まっている。
立ち去ることもできず、恐らくは不穏な眼差しで男達を眺めていた。
しかし、その痴態と同様にナミを驚愕させたのは、あんなトコロを弄られてイクなんてと蔑みながら、確かに興奮していた己自身である。ナミの中では求愛の賛辞を受けた時点で、大好きな黄金色と真夏の空を模した蒼碧は己の物であり、心のどこかで愛玩動物の様に感じていたのに、その彩色を揃えた男は同性の前に四肢を投げ出した姿で乱暴な前戯にも逞しい胸板を細い腕で突っぱねるだけ。殺人的な足技を操るサンジなら本気を出せば逃れられぬ訳がないのだから、目の前の行為は合意の上の単純な営みであったのだ。それを理解した時、吹き荒れる不快と同時に、形容し難い愉悦が沸き起こった。
アタシのものみたいな顔をしておいて。
その時のナミは飼い犬の躾けのプランを組み立てる主人の心持ちで、着衣のまま進められる淫行を眺めていた。
どんな形でこのふしだらな行いを暴き、そ知らぬふりをする小憎らしい存在を懲らしめてやろうかと。
突き落とされたと同時に引き上げられた気分は、『その手』の薬物により脳内麻薬の制御が狂った直後を想像させる。
脳内の神経プラグを膨大な電子が通過し、静かに過熱してゆく高揚感に口の端の釣りあがったその時。
仰け反る白磁の咽笛にむしゃぶりついていた剣士がふいに視線を外して、ナミのそれとぶつかった。
偶然であったのか、それとも手足れの剣士の勘が不穏な空気を読み取ったのか。ギラギラと鋭く輝く金色ともまごうばかりの琥珀の瞳が、思わず息を呑んだナミをとても嫌な笑い方でもって捉えた。ニィと割れた口唇の間から迫り出した舌が、獣じみた仕草で咽の隆起を舐め上げる。それは明らかに見せ付ける為の行動。剣士は不謹慎にも公開プレイと洒落込んだのだ。
生意気にも、ナミを見物人に仕立て上げて。
ぐあっと、脳内の血流量が上昇し、表情が凶悪に歪んだ。
何様のつもり!?
嫌悪感と生来の負けず嫌いが、ナミの怒気を暴走させた。
それが、ますます剣士を喜ばせるのだと分らないではないのに。
予想に違わず剣士は一層強くサンジの内性器を甚振り、逃げを打つ身体が外部を意識してしまわぬよう、顎を捉えて口付け悲鳴を抑え込んだ。上着は身に着けておらず、ブラウスだけのサンジの胸が痛々しい程に跳ねる様に、口を塞がれていなければ、どんな嬌声を上げていたのかと思考が巡る。
無意識なのか、攻め立てられる痩身は怯えるように縮こまって、粗暴な剣士の安物のシャツをぎゅっと掴んで耐えている。女のナミですら、その健気な仕草にクるものを感じたのだ。野蛮な雄の本能を具現したかの男が素通りできる筈がない。征服欲を掻き立てられさぞ興奮したことだろう。
そうね、面白いショーだわ。ゾロ。
身体を良い様に弄ばれるサンジ君はとても魅力的。
荒々しい接吻に閉ざされてしまったサンジの眼差しと、日常を懸け離れた事態にも馴染んで細く見据える形となったナミの視線が絡むことはなく、音を殺してその場を後にしたのだ。
ハイヒールの踵を鳴らす事無く女部屋へと向かう間に考えたことは、矢張りサンジにどんなお仕置きをしてやろうかということ。その時点でのシミュレーションでは、ちょっと半泣きにさせる位の可愛い苛めだった。三流ポルノの女王様を気取って可愛い下僕を愛玩してやる。その程度の。
全くの予想外であった。
打たれ強い筈の男が、あんなにも傷付くなど。
…あの男を傷付けてしまうなんて。
そして、謝るどころかそんなつもりは無かったと言い訳することもできなかった。
息苦しい程に言葉は胸は詰っていたのに、結局伝えられずにサンジを見送ってしまったのだ。
その閉塞感には良く覚えがある。昔、育ての親である女性をなじってしまった時と同じだ。
許されてきた甘えと、許されると考える狡賢さと、折れる必要のなかった幼稚なプライド故の。
それなりの人生経験を経てきたと自負していただけに、己の中に残った子供じみた部分を意識させられたことも、ナミの精神を疲弊させた。下らぬ自尊心だ。何故ごめんの一言も言えなかったのか。
どうして、あんなにも追い詰めるまで、サンジを解放してやれなかったのだろうか。
自制の箍が外れてしまった己も、ナミには不思議でならない。勿論主導権を維持する為に日頃から他者を操る手立てに余念は無いし、時にはやり過ぎて反省することもある(しかし大概の反省は一瞬で終える)が。しかし、今回の出来事は寛大な自己基準からも明らかに逸脱していた。
拒絶されて腹を立て、男の至極まともな観念を受け入れられなかった。
己が荒んでいたから、奇麗事が許せなかったのだ。
ゾロとあんな嫌らしい事をしていたくせに!
そんなふうにいじけて。
ナミには関係の無いことなのに。
けれど、だったら気安く口説くなと、そんな文句も捨てきれない。
愛を囁きながら、悪戯なペッティングも許せないなんて勝手だとナミは思うのだ。
それに。
それに、あんなに厭らしい身体をしながら純粋でありたいと望むなど、余りにも都合が良すぎる。
ああなるまで、一体どれだけの人間とベッドを共にしてきたのか。
そんな身体でありながら、ナミを拒絶した。
屈辱であった。