っと浮上した意識に任せてエースはまなこを開いた。
大海原に浮かぶ羊船の船窓からは仄かな月明かりが差し込み、傍らで静かな寝息を立てる恋人の髪を淡く照らしている。月にさえ愛でられているようだと、その安らかな寝顔にエースは知らず笑みを浮かべた。
愛して止まない。
…弟には感謝しきれぬ。
よくぞこれを見つけ出し、おのが仲間に迎え入れてくれた。
この偉大なる航路に連れ出してくれた、と。
弟という接点がなければ、この若者に出逢い、こうして情を交わす運命は訪れなかったやもしれぬ。民族色の強い衣を纏い煙草をくゆらせていた姿に一瞬で惹かれ、惹かれたとわかったのに、その時は再会した弟への忠告と物品の譲渡という目的を果たしてさっさとこの羊船を離れてしまった。
一目惚れなどという甘い恋愛小説の定石を、まさか己がなぞるとは思ってもみなかったのだ。
何故、その姿や声音が頭から離れぬのか…それまで愛着を恋情まで発展させることの無かったエースには全く理解できずに時が過ぎ、ある小さな港町の市場で偶然にも再会した事で、漸く一連の変化にはっきりとした理由を付けるに至った。
余りに嬉しく。
愚かなまでに感動して。
名前と料理人とい肩書きしか知らなかったのに、驚く彼に構わず抱き締めていた。
会いたかったと意識せず口にして、初めてそう願ったことに気付く位、静かに静かに想いは育っていたのだ。
その後散々罵倒され口数と同じだけ蹴られもしたが、押して押して時には引いて、何とかその気にさせた時、彼にもまた変化が訪れた。
互いの航路が接近した時だけの逢引。その別れ際、彼は淋しそうな眼で拗ね、憎まれ口を叩きながら最後に唇を噛む。止める言葉を持たぬ彼のいじらしさに、益々夢中になってしまう己を律することがどれ程難しいか。

彼は知らぬ。エースの観察眼で推測するに彼はこの愛情の一角しか認めていない。

僅かな時間で抱擁を解かれて置いてゆかれる身には無理からぬ事かもしれないが…。

離したくないのも、心配でならぬのも、己の方なのだ。

この船には、彼を好く者が密集しているのだから




***




再会した日、エースを連れ立って帰船した料理人の姿に最初に反応したのは、同じく弟の船に乗る剣士だった。
腕を組み、不機嫌に眉を寄せ、好かぬ視線を真っ直ぐ寄越してきた男。
客人にガンくれてんじゃねぇと料理人に腿の辺りを蹴られた剣士が視線を外すまで、エースもまた見えぬ刃先で牽制を掛けていた。
この男は『敵』。
要注意人物として心裡の黒手帳に記した。

次に矛先を向けてきたのは航海士の少女。
テーブル手前寄りに座り料理人の一挙一動に注いでいたエースの視線を業と遮り、キッチンに立つ痩身との合間、長椅子の僅かなスペースに無理矢理腰を降ろして不適に笑んだ。
初対面の時にはそこそこの好感蝕でもって送り出されたというのに、この変わりよう。

ルフィのお兄様でも、分けてはあげられないの。

直球である。剣士よりは随分と『理解』している。エースと、そして自身の本気を。
恋敵でなければ此方からお願いしたいくらいの美少女であったのに残念だ。
エースは笑みを浮かべつつ裡の黒手帳を開いた。

三人目は考古学者の長身の美女であった。
顔だけは賞金首の手配書で知っていたし、噂で麦藁一味と行動を共にしていると聞いていたから、驚きどころか興味が湧いた。
航海士に船長の兄だと紹介され愛想良くこうべを下げると、彼女もまた如何にも対人用といった表情でにこりと笑んだ。
真っ黒な眼差しは剣士や航海士とは違い、全く底を見せない。悪魔の子とは良く言ったものだ。

後三十分もしたら市場の輸入品専門店で香辛料の半額セールをやるそうよ。

美女の帰還で気を良くしていた料理人が零れんばかりに碧眼を見開き、慌てて彼女の分と思われるカップを棚から取り出した。
美少女と美女を前にするとどうも腰砕けになるらしい料理人がそわそわと時間を気にしだしたのを見るに付け、美女も、そしてエースの横にぴたりと張り付いた美少女もくすりと小さく吹き出す。

後はやっておくわ。行ってらっしゃいな。
いや、大丈夫。走れば間に合うから。
半額セールよ?きっと酷く混み合うでしょうね。女性も大勢いると思うわ。

料理人の顔色に、これ以上無い位の焦りが満ちる。
女は蹴散らせない、か。分かり易過ぎて、エースまで笑いを堪える羽目になる。

じゃ、じゃあお言葉に甘えて。御免ね、ロビンちゃん。ナミさん!

壁に掛けた上着を掴んでラウンジを駆け出した料理人が、ふと脚を止めてエースに視線を向けた。
夕飯くらい喰ってくんだろ?

と、それは確認に近い問い掛けで。
断る理由など皆無であったから、お世話になっちゃっても良い?と形だけのいらえをした。

当り前だ。何たってキャプテンの兄貴なんだからな。

蒼の宝石に和やかな光が灯って。その時はまだ健全な係わりのみであったが、気に掛けて貰えた事は単純に嬉しかった。

けれど、ラウンジの空気が一気に冷えた込んだ事にも能天気な料理人は気付かず船を降りてしまう。

寒々しい気配を纏わせた女性陣の真ん中にエースを残して。



***



もっとそっちに行って。

金色の髪が扉の向こうに消えた途端に航海士は覚めた口調でエースの逞しい腕を押し退けた。自分から割り込んでおいて勝手な言い草である。きっと普段からこんな傍若無人な振る舞いをするお姫様なのだろう。
エースは美女に差し出されたカップと薄焼きのクッキーが乗った皿を持って長椅子の中央に移動した。
黒髪の美女はテーブルを挟んだ丁度エースと航海士の中間に腰を落ち着けている。手元からはコーヒーの香ばしさが香る。
航海士とエースには料理人が用意した紅茶を。自分には趣向なのか態々フィルターを通したコーヒーを。
なかなかマメだ。彼女もまた我を通す人間なのかもしれない。

ねぇ、ロビン。このお兄さん、サンジ君のことが気に入っちゃったみたい。

切り込んだのは、矢張りというか人一倍の負けん気が滲む少女であった。

じろじろと舐めるみたいにサンジ君を見て。厭らしい。

言いながら、可憐な唇がさくりと生地を食む。

あ、美味しい。

放った言葉は辛辣なのに、次の瞬間には口腔の菓子に意識を持っていかれる様子にエースは眉尻を下げた。
何とも緊張感の続かない。先程の牽制では随分と小賢しく見えたのに。

そうなの、それは困ったわね。

けれども、緩んでしまった気配の糸は美女の抑揚の無い声音で再びぴんと張り詰める。

私、コックさんが部外者にそういう眼で見られるの、嫌いなの。

言の音と同じ位に温度を持たぬ漆黒の眼差しがエースを見据えた。
馴染み深い感覚が背筋を這うのを感じ、思わず犬歯を覗かせてしまう。

その女の眼差しは航海士や剣士のそれと一線を画くものだ。
湿度が違う。

じめじめと薄暗く、夜闇の海面の如き魔性を孕んでいる。

殺り合ったら楽しめそうだ、などと頭の端でエースは思った。
こういう女は実に美しい闘い方をするのだ。躊躇いの無い筋にきっと見惚れてしまうだろう。
腕に覚えがあるから恐ろしいとは思わなかったが、彼女もまた料理人に御執心のようで…。
それには心配の根が残った。
この女、彼には刺激が強すぎる。

部外者じゃなければ良いのかい?

船長の兄を部外者と切り捨てた冷徹さや、逆に部外者でなければ『そういう』視線を容認する不可思議な感性をエースは好ましく思う。

そうよ。この船の人間は恋に狂って彼を傷付けたりしないと確信しているもの。

『貴方の事なんか全然知らないから全く信用できないわ。恐いことするかもしれないし、さっさと消えて頂戴』と、そういうことなのだろう。

イイ女であったが矢張り恋敵なので、黒手帳のリストに名を記した