ローの家の裏庭は左右を林、正面奥を裏山の崖に囲まれた広さ40坪余りの裏庭がある。
崖の手前には一対の朱塗りの灯篭があり、更に手前には同色の小さな鳥居があった。幼い頃からそこに近付いてはいけないときつく言い含められていた。祭神に粗相があってはいけないからだ。
鳥居の向こうの崖は先祖が拵えた洞窟がぽかりと口を開き、内部には御神体が安置されているのだと聞いている。
時々、鳥居の赤に魅せられ離れの建物の影から眺めているとどこからともなく鈴の音が聞こえることがあった。

ちり…ん
ちりり…ん…

風邪にそよぐ木の葉のさざめきにも掻き消されてしまいそうな儚い音は頼りなげにローの耳奥に届く。
曾祖母が言うには「オコンショサマが祠から外の様子を覗いている」のだそうだ。
ローの家は代々独自の神『オコンショサマ』を祀る旧家であった。
元は山深い土地に隠れるように在った集落の村長であったが、明治時代に政府の調査隊により発見された後、村人達と共に厳しい山暮らしを捨てて麓へと下り、今の土地に移り住んだのだ。
それでも役場のある町から車で二時間近く掛かる僻地。隣り村にだって徒歩で一時間は下らない。そんなのどかというか、うら寂しい土地で一族はひっそりと暮らしている。昔共に山を降りた村人達は次々に町へと移り住み、今は一族と一際濃い血縁関係のある僅かな親戚衆のみが、田畑や山の実り、麓に下りてから始めた株や土地の売買で生活していた。
昔はきこりも営んでいたようだが、木材の需要が減少してからは平地での稼ぎが財産の大部分を占めるようになったらしい。
質素な暮らしであったが、大きな平屋建ての生家には自室があったし、多少変った風習を持っておれど、ローには何の不満も不安も無かった。

鳥居に近付いたらいけん。オコンショサマを視ていいのはオラんちの様な婆と代を継ぐ者だけだでな。

表情の乏しい曾祖母の細い目にローは居心地の悪さを感じて頷くばかりであった。
代を継ぐとは祭事を取り仕切る当主の代替わりを示している。大抵は16歳の頃の子供を次代に選びオコンショサマにお披露目した後、当代の死後正式な継承者としての自動的に権利が移行してつつがなく祀りの儀式が行われる。
本来であれば今現在の当主はローの父であるのだが、元々病弱であった為に遠い街の大病院に入院しており、祖母が行事の一切を代行している状態であった。先代の祖父はローの生まれる一年前の水害で鬼籍に入った為に面識はなかった。

さて、オコンショサマという神を祀るにあたって様々な決まりごとがある。その一つに『代を途絶えさせてはいけない』という絶対的な規律があり、当主が存命の間に次期当主を選抜し神に顔見世しておく必要がった。
祭り事が途切れると災いが降りかかると昔から言い伝えられていたからだが、そのせいでここ数年家の中が慌しかったことをローは記憶している。

今現在12の歳を数えるローには二人の兄がいた。

6つつ離れた長男キッドと、4つ離れた次男ホーキンスである。ローは三男の末っ子にあたる。
病弱な父であったが男児に恵まれた為に跡取りの憂いがないことを喜び、長男が16になった早々に彼を次期当主に指名した。
長男は少々勝気で腕白な面を持つ少年であったが、神を感じ取る才も持ち合わせていたし、何より心臓の病を抱えた父は大事が起きる前にと事を急いでいたのだ。
だがあろうことか、二年前のお披露目の儀式の前日に長男は姿を晦ましてしまう。

ガキのお守りなんざ御免だ

そんな言葉を吐き捨て、玄関先で追いすがった勝手場預かりの乳母を押しのけた兄はスポーツバッグ一つを肩に担ぎ家を出て行ってしまった。

それを玄関から真っ直ぐに伸びる廊下の奥で眺めていたローは突き当たりで折れた廊下の先、奥の自室から出てきたであろうホーキンスに気付き、落ち着き払った様子の彼に止めなくていいのかと問うた。

構わん。カミを視る力は俺の方が強い。代は俺が継ぐ。イヤイヤやられてもこの家の為にはならん。

だがこの騒ぎで親父に大事がなければいいが…。と、まだ己が顔見世をできる年齢に達していないことを憂慮しながら、表情を変える事無くその場を後にしようとした次男をローは呼び止める。
長男の捨て台詞に気になる部分があったからだ。

ガキのお守りと言っていたが、ガキとは誰を指しているのか。
自慢になどなりはしないが、これまで長男に特別可愛がられた記憶はなく、幼い頃よりローはいつも一人で時を過ごしてきた。だから『面倒を見なくてはならないガキ』がいたとしても、それは当然自分のことではあるまい。目の前の次男を含め強すぎる個性のせいかそれぞれ自立心が強く、互いに兄弟の絆を確かめ合うような触れ合いをしてきたためしはなかった。


次男は色の抜けた真白な髪を揺らして幼いローを見下ろした。


オコンショサマのことだろう。
俺達が祀っているのは童…子供の神だ。





子供の神。

あっさりと、今度こそ歩を進めて廊下を歩いてゆき、玄関寄りの左手に誂えた引き戸に手を掛けその内側、手洗い場へと消えて行ったその整った横顔をローはひっそりと睨んだ。

あの鳥居の奥にいるのは…あの儚げな鈴の音を鳴らしているのは人ならざる子供だというのか。

この瞬間、それまで何の関心も無かった家の仕来りに対し薄っすらと靄がかった嫌悪が生じた。
子供の神と言えば座敷童子を連想するが、勝手に居ついているのであろう彼等とは全くの別物である。
鳥居や祭壇を設けて降ろし、祀っているのだ。穿った言い方をすれば囲っているとも言えるのではないか。

当時十を数えたばかりのローであったが、一族の特性か兄二人とも共通して同じ年頃の子供に比べ聡明であったことは、もしかすれば不幸であったのかもしれない。

聡明であるが故に眼を逸らせず、幼いが故に『そういうもの』と切捨てられない。
良くも悪くも祭り事は大人達だけの世界なのだ。
ローは薄暗い廊下に一人取り残された。

キッドの行方は知れなかった。