それから二年が経った現在、芳しくない容態を抱えながらも存命する父により16の誕生日を迎えた次男のホーキンスが次期当主に任命され、お披露目の儀式が行われたのは七月も後半に入った梅雨明けの時期であった。
儀式といってもその日の為に病院から一時帰宅した父と共に普段着のままの兄が鳥居を潜って洞窟へと入っていっただけで実にあっさりとしたものだった。一応鳥居を正面にして障子も木戸も開け放った離れの座敷には成人した親戚衆が一様に座し、其れに倣ってローもまた部屋の一番後ろに座ったが、皆で決して祠を直視しないよう黙りこくって俯いていた為に静かなものであった。
その晩ささやかな宴が催されたものの、人付き合いの苦手なローの気を惹くところでもない。


それよりも、かつてと違い少し弾んだ鈴の音が届いたのが印象的だった。

ちりりん、ちりりん…と。感情で例えるなら嬉しげな音であったとローは記憶している。

きっと外見からして真面目そうな次男はオコンショサマに気に入られたのだ。不精でぶっきらぼうな長男が継いでしまうより、結果的には良かったのかもしれない。




小学生最後の夏休みに入ってから一つの変化が起きた。、集落で管理する大型乗用車に相乗りして麓の小学校へと通う必要がなくなって一週間後、ぼんやりと日々を過ごしていたローの周囲…正確には家を中心とした集落全体がぴりぴりとした雰囲気を醸しだしたことを何とはなしに感じ取ったのである。

家のものは常に難しい顔をし、親戚衆の家ごとの代表が良く訪れるようになった。変ったのは人ばかりではない。家の中が何か…得体の知れないものが入り込んだような…或いは常に覗かれているような…そんな不快な空間になってしまったのだ。
一人であることを好むローには、テリトリーを侵されている状態は酷く堪えるものがある。
異変を感じてから十日が経ち、外庭で飼っている鶏を捕まえては高く放り投げるといった、鶏からしてみれば迷惑極まりないストレス行動を繰り返すローを祖母が奥まった自室に呼び寄せ、水羊羹と麦茶で持て成してくれた。
八畳程の部屋に箪笥と押入れ、小さな鏡台にちゃぶ台があるだけの質素な室内であったが、そこの空気は正常で、座布団に座ってからもローの視線はきょろきょろと彷徨った。そんな子供の様子を祖母が小さく笑う。

産後の肥立ちが悪く、若くして他界した母に代わって、ローを世話したのは祖母と乳母の女手である。

だからというか、穏やかな印象を持つ祖母と彼女に歳の近い乳母が曾祖母に対するのとはまた違った意味でローは苦手だった。



可哀想に。まだ子供だで、良くないものが視えるだな。でももう暫くの辛抱だで。オコンショサマが悪いモンを祓ってくれるで、それまで我慢せにゃ。全部終わるまでは此処にいていいでな。



全部とは何なのか。一体何が起こっているのか。

簡潔に濁す事無く問いかけるローに対して祖母は、落ち着いたらな。と首を振り、小さなお守り袋を持たせただけだ。
お守り袋は畳んだ布キレを縫い付けた簡単なもので中に何かが入っているようだが正体はわからない。


お前には何も起きんだろうが、念の為に持っとけ。


そう添えられた言葉の意味もきっと教えては貰えないのだろう。

恐らくは他の誰かの身に何かが起きるのだ。
しかし、それに気付いたとて子供のローの言葉を聞いてくれる者はいない。
元より跡継ぎの候補から外れている末っ子は万事において蚊帳の外だ。

自分など居なくても本当は良いのだろう。

そんな感想を、聡明な子供は甘ったるい和菓子と共に飲み込んだ。


その日の夕げの時刻…。




次坊が、次坊が大変だ!




聞き覚えのある親戚の若い衆の声が母屋に響いた。
暇つぶしに読んでいた学級図書から顔を上げたローは何事かと本を置き、襖から廊下を覗いた。
長い廊下の突き当たり、玄関へと続く角から慌てふためいた刈上げの男が此方に駆けてくる。そして、祖母の部屋の前に辿り着くと、ローの頭越しに中を覗いて祖母に慌しく何事かを訴えた。


次坊が手洗い場で倒れた!オンガサがやってきたんだ!

落ち着きけ!子供の前だぞ!馬鹿モンが!!


次坊とは次男坊のホーキンスを指す言葉だ。唾を飛ばす勢いで捲くし立てる青年に、祖母はぴしゃりと言い放った。普段温厚な祖母の激変に目を丸くしたローに気付いた青年のばつの悪そうな顔を一瞥した祖母は、ホーキンスを離れの座敷に運ぶようにと短く命じた。


騒ぎを聞きつけワラワラと集まってきた親戚衆に肩を支えられたホーキンスが、離れに続く廊下を真っ青な顔で歩いてゆく。途中の祖母の部屋の前を通り過ぎる時に見上げた様子では、呼吸が浅く苦しげであった。そしてそのホーキンスの後首から一筋の黒い靄が伸びて中空に消えていた。

余り視るな。お前も障られるぞ

他の大人達同様に難しい表情となった祖母が、普段より厳しい声音でローの行動を諌めて廊下に身を滑らせた。


今アレが言った言葉は忘れるだぞ離れには近付いたらいけんでなと言い残して一団の後を追った祖母の部屋の襖をローはそっと閉じる。
畳みに座りちゃぶ台の脇に置いた書物をずらして先程まで腰を落ち着けていた位置で胡坐をかいた。
ちゃぶ台の上には祖母の手繰っていた針の道具が申し訳程度に纏められて置いてあり、事の慌しさを象徴しているようだった。



オンガサ。
泡を食ったアレ(青年)が口走った言葉は初めて聞く単語だった。
きっと口にしてもいけないコトバ、或いは凶事ソノモノなのだろう。



バタバタと大人の駆け足が廊下を通り離れの方角へと消えてゆく。
まるで切り取られたかのように清浄な空間でローはたった一人呼吸をしている。
孤独を恐ろしいとは思わない。
ただ、待つには余りにも手持ち無沙汰であった。
先程までは辛うじて暇を潰していてくれていた書物からも完全に意識の逸れてしまった今、ローには思考による時間の消費しか選択肢はく、その自我の求めに素直に従った。










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