聡明な子供はどうしてもぽっかりと空いた知識の泉を満たしたくなり、
与えられた守り袋を手にしっかりと握ると、そろりと襖を開けて薄暗い廊下へと歩を進めた。
途端に天井の隅や壁の汚れに凝り固まるように淀んだ瘴気を感じて一瞬気遅れたものの、ぐっと前を見据えて離れとは逆の方向に廊下を辿る。突き当りを右に折れ玄関に降りると、靴を履いて夕闇迫る庭先に出た。山に囲まれた集落なだけに辺りはすっかり薄暗いが、完全な闇には程遠いうえ、自宅の敷地内…生家を間近にしながらの進行であるだけ心強かった。
できるだけ音を立てずに母屋に沿って外庭を歩く。片隅にある三畳ほどの広さの鳥小屋に入った鶏達が最近苛めてばかりいるローの存在に気付き騒ぎはしないかと少し心配になったが、それでも距離がある為かまるで関心はないように普段通りの様子だった。コッコッと軽快な仕草の歩行を網越しに確認し、安堵しつつ母屋をぐるりと回りこんで林に囲まれた裏庭へと向かった。

裏庭を囲む林は何時も以上に薄暗く、今が平時ではないのだということを感じ取る。
離れの方角に見る景色はあからさまに大気が淀んでいる。落ち枝に気をつけながら入り込んでゆくと、空気に質量が加わったのではないかというくらいにシャツから覗く素肌や呼吸で取り込む肺に重く纏わり付く感じがした。

酷く不快な気持ちになって、ローは薄い眉毛をぐうと顰める。
しかし、恐怖心は沸かぬし、退散の計とて元よりない。寧ろ勝負でも挑むかの気概で一歩一歩を踏み締め母屋と離れを繋ぐ渡り廊下に辿り着いた。
廊下といっても建物の延長であり、屋根が続いて壁もある。ただ小さな小窓が等間隔にぽつりぽつりとあるだけの作りが、人の溜まり場ではないことを示している。
その壁伝いを殊更音に神経を使いながら辿って遂に裏庭を見渡せる離れの角へと到着した。
耳を澄ますと木造の壁越しに祖母と曽祖母の祝詞が聞こえてくる。
謡う調子の祝詞は神主のものとも僧の念仏とも違う。
己が家の祭り神が有名な古事に連なる仰々しい名を持つ神仏ではないことをこんなところでも窺い知れた。


裏庭は聖域同様の扱いをされているので、非常時とは言え人が入り込んでいることはないだろう。誰かに易々と見付かるとは考えぬが、それでも顔を覗かせる為に息を止めた。

ローの視線では奥に神を収める裏山の崖、手前に小さな明かりの灯る灯篭、更に手前に鳥居、中庭を挟んで離れが存在する。



中庭の中心を縦に裂く様に注連縄が左右に二本。途中を鳥居の柱と二メートル程の間隔を空けて地に突き立てられた二対の若竹とを支えにして、道を作るが如く崖の洞窟の入り口から建物の軒先に向かってぴんと張られ結ばれていた。

そしてその『道』の脇に黒い、人の輪郭とも取れる影が数体、…瞬時に七つの靄をローは確認した。
思わず呼吸を忘れた。


ああ、あれは良くない。恐ろしく良くない。


直感の警告を受け、背中にどっと汗が流れ落ちる。
ここに来て、初めて己の許される行動範囲を逸脱してしまったのではないかと懸念が生じた。
止めていた呼吸は持ちそうにない。

呼吸を戻したらアレ等に気付かれるだろうか。

しかし、生きている肉体に無呼吸の負担は大きく、これ以上は耐えられそうもなかった。
覚悟を決め、両手でしっかりと守り袋を握り締める。息を荒げてしまわぬよう、細心の注意を払って細く息を解放した。
無音の呼気が己の間近で拡散し、あの気味の悪い靄達の許に届かぬことを願う。

祝詞のみが空気の振動を耳に伝える。それ程に、この静か過ぎる空間はあらゆる生物の営みから隔絶されている。
木々のざわめきも、虫の音も無い。完全な異空間であった。
そこでは、生者はアレルギー反応の如く即座に察知される異物であったのかもしれぬ。

ローが長い息を吐き出し終えると同時に、黒い影のうちの二体がぐらりと揺らいだ。



気付かれた!!



それまで感じたことのない強烈な危機感に血の気が下がった。
影は成人の輪郭を曖昧に象っているのみで首と頭の区別もつかぬのに、それでもローには二体が『こちらを向いた』と感じ取れてしまった。悪いことに、怖気づいた精神が肉体を縛りつけ自由を利かなくしてしまう。
いっそのことグズで鈍感だったなら、何が起きているかも知らず傍若無人に振舞えただろうに。
ローは逃げ出すことすらできなくなってしまった。



揺らいだ二つの影がぞろりと蠢き、直立の姿で地面を滑り来る。





来るな!!





唇や身体の末端部分のみをわなわなと震わす子供は、ただぎょろりとまなこを見開いて恐怖の源を凝視するばかり。

キィンと耳鳴りがして祖母の祝詞の声音が遠ざかる。


おばぁ、おばぁ…!


母親代わりだった祖母を呼ぶ。しかし、強張った声帯では意味ある音は鳴らせなかった。心の中で必死に叫ぶも、甲高かい耳鳴りが祖母の祝詞を完全に掻き消してしまうと、ひたり触れた絶望がローの頬を冷たく凍らせた。




影が来る。
滑るように近付いてくる。




幼い身には覚えなどあろう筈も無い『死の気配』が、間近に迫っている。




おぞましい影の内部に奈落の闇を感じたその時、ローは両の手で握り締めた守り袋の存在を唐突に思い出した。





オコンショサマ…




祖母のくれたソレの中には、恐らく祭り神の加護を受けた何かが収められている筈だ。
視線を影に張り付かせたまま、ソレが今の己の命綱なのだと、それは確かなのだと、ローは強く信じた。




オコンショサマ!
オコンショサマ!!




御神体どころか鳥居にすら近づくことの許されぬカミの名を只管に念じた。


姿など知らぬ童の神に脳裏で縋った。
果たして、禍々しい闇を目前にしたローの耳に、発狂してしまいそうな耳鳴りを押し退けて涼やかな鈴の音が鳴り響いた。




















ちりりぃん…




















遠くで朱塗りの灯篭の小さな灯火がぽうと強まった。







ちりりぃん…





心地の良い音である。
その愛らしくすらあるささやかな音色に強張った全身が解けてゆくのをローは感じた。
同時に耳鳴りも消えて祖母と曽祖母の祝詞が夕闇に戻る。

あれほど恐ろしかった影も完全に動きを止め、進退窮まる様子でローの眼前でわだかまっている。



鈴の音に誘発され、ちらりちらりと鳥居の辺りに視線を彷徨わせると、奥の暗がりから何か白いものがぼんやりと現れた。
初めは狐火のように丸くふわりと浮いていたそれは、灯篭を過ぎ鳥居を潜る時人の形にゆるりと変化し、輪郭のみのヒトガタから更に鮮明な像を現わすとそれは完全な人の姿となった。


その時ローが感じたものは、恐怖とは違う全く別物の衝撃であった。



その姿は正しく童であった。
年の頃は十三か十四か。
銀ともまごう黄金色の髪が右目を覆う白い面。細い身体を覆う白地の着物に赤い帯。
着物の様子から童女かと見るも、相手が人ならざるものではその判断も正しくはないのか、とも思う。
それに直ぐに意識は性別の憶測から引き剥がされた。
金色の髪から二つの獣の耳が飛び出していることに気付いたからだ。耳孔は正面を向いており、綺麗な三角を模っている。

ローにはそれが狐の耳に見えた。

一つ瞬きをして、その印象が間違いでないことをしずしずと歩く姿の背後に見える獣の尻尾らしき物で確信した。
琥珀に近い黄金色の毛並に先端が白いソレは正しく狐の尾っぽそのものであった。
しかも、一本でなく三本同時に見えている。揺らめくものの残像ではなく、事実三本が等しく存在しているのだ。


夜店の水風船を遊ばせる様に緩く上げた右手中指の下には鈴と思わしき金色の小さな玉が浮かび、その揺らぎに合わせてあの涼やかな音色が鳴った。


全身を淡い光で仄かに滲ませ歩く姿は幻想的で大層美しい。









これが、我が一族の護り神…。









早鐘のように心臓が脈打つのをローには止めようがない。
焦燥感にも似た高揚に支配され、自然と頬は赤らんだ。
これまで家内の信仰には興味が無かったし、対象が子供の神であることを知ってからは嫌悪すら沸いたというのに、今ローの胸中に襲来したものは血肉を躍らせる誇らしさ、晴れがましさであった。














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