物心がついた時からただ淡々と父親と派閥の持つ思想の素晴らしさを説かれて育った。



人と獣と。或いは人と人との愚かな憎しみ合いの歴史の授業の締めは必ず似た言葉で括られる。

----下等な生き物達はその繁殖力でこの世界を覆い尽し駄目にしてしまうでしょう。だから私達がいるのです。全てを正すのが私達の役目。この地上に生まれた意味と、その必要性を有するの我々だけなのです。我々は選ばれた人間----。

彼女は指し棒を軽く両手で握りながら、机の上にまだ教科書を広げたままのソルに語りかけた。
緩くカールした明るい赤毛を時折揺らす彼女の、黄緑の瞳は聡明な輝きに満ちていた。

----候補者、ソル・セルボルト。世界を変えるにはその歴史を知らねばなりません。立派な創始者となる為に、貴方はまだまだ学ばなければならないのです。
キール・セルボルトには年齢と経験で劣りはしても、貴方には大儀を成すだけの器がある。
私はそう信じています。
貴方は私の受け持った子供達の中で、最も優秀な生徒です。
ソル・セルボルト。
貴方はきっと運命に選ばれます----

大人の女性特有の低く凛としたその声をソルは思いの他気に入っていた。

ソルに付きっきりで召喚術や歴史、美しい召喚陣の作成の仕方を教えてくれた女教師は、議会がキール・セルボルトを<宿命の仔>と認めたと同時に姿を消した。
彼女は潔癖な人間であったとソルは記憶している。誇り高く、そして派閥の思想が正しいものと信じて微塵も疑わぬ人間だった。同時に、その潔癖さから同胞からは厄介者と見られていたこともソルは知っている。

大いなる力を宿した魔王を召喚して一旦世界を滅ぼし、残った人類を束ねて理想郷へと導くことが無色の派閥上層部の意向であった。その儀式を執り行う責任者であり魔王を引き寄せこの人間界に固定する為の媒体となるべき人間は、幼いころよりその思想に一片の疑いも持たぬように育てられる。大掛かりな召喚の儀式は術者の精神状態と深くリンクするからだ。故に派閥は二十年もの以前から優秀な人材を選別して外の世界と隔離して養ってきた。
ソル・セルボルトは二十六番目の仔にして、最終選考まで残り幹部である父親と同じ屋敷に住まうことを許された稀有の存在であった。そして、たった一つの地位を巡り争った腹違いの三つ上の兄、キール・セルボルトもまた同じである。
現在派閥上層部は内部分裂を起こしており、議会の決定が下る前まで古株カーツォーレル卿率いる中老達がキールを、新興勢力であるカッレラ卿一派がソルを候補者として押し上げ争っていた。候補者二人の母方の血筋が所縁でこうして真っ二つに分かれたのだが、どちらの派閥も大儀の後の世で更なる利権を得る為に選ばれし仔を懐柔しておく必要が大いにあった。ソルとキールの実の父親である権威オルドレイク・セルボルトはどちらの派閥に属しておらず完全なる中立を保っており、大儀の後には一層の地位を得るであろう彼とのパイプラインとしても重要だったのである。

そして、巫女の占術により儀式の詳細な日取りが決定した後、準備期間を逆算した半月前に最終選考が成された。
能力、経験、肉体的、精神的な素質の見極めの結果、選ばれたのはキール・セルボルトであった。
この時点でソルは候補者という特異性も、新興勢力の後ろ盾も失ったのである。
そして、父親の関心も。
ソルに最も関わっていた女教師は責任を追求され僻地に追放されたとも噂されているが定かではなかった。しかし、それはあながち虚偽でもないのかもしれない。規律を重んじる彼女は仲間内には嫌われていたからだ。
例え己より高位にある人物であろうと理不尽な命令には抗議し、決して汚らしい悪態を吐くことも無く、誹謗中傷を嫌い…。まるで、派閥の人間らしく無かった。
いつでも彼女だけがソルの味方であったのだが、それは己が理想実現の為の駒であったからなのかもしれないと疑い、ソルもまた彼女の潔癖さに馴染めなかった。けれど、他の人間よりはずっと信頼はしていた。だから彼女の失踪は少なからずソルを打ちのめす結果となった。
最早、無色の派閥のどこにも居場所は無いのに、それでも他に行くところがなく。ソルはただ、儀式の補佐というおこぼれの声が掛かるのを、広いだけの屋敷で何をするでもなく待っているのである。
偶に擦れ違うキールの勝ち誇った眼差しに萎縮し、手の平を返すようにおざなりになった関係者の態度に苦虫を潰していたある日。

長い廊下を歩み来る父親と、見慣れぬ姿があった。
透き通りそうな白い顔の半分を、真っ黒な頭髪ごと無造作に包帯で包んだ異様な風体の少年だった。
見入りそうになりながらも慌てて頭を下げるソルに父親は言った。

今日より、この奥の一室をこれに与える。
近付くではないぞ。

広い屋敷だ。別にその内の一室に他人が住まおうとも取るに足らないが、しかし。
はいと答えながらも、ソルは少年をこそりと上目遣いの視界に収めた。
少年の片方だけの眼差しと視線が絡む。
見たことも無いような真っ暗闇を閉じ込めた瞳がじっとソルを見ていた。

ああ、(心を)覗かれている。

ぞくりと、背筋が凍った。
それ以上は耐えられず、すぐに目を逸らした。少年の無意味な笑みにかつてのライバルの見下した笑いを連想して気後れしたソルには顔を上げる気力などなく、ただじっと二人が歩み去るのを待ったのである。
そんなソルの様子に特に注意を払うこともなくオルドレイクは着衣を翻し廊下の奥へと歩を進め、少年もまた従順にその後を追った。
上半身の窮屈な姿勢を解放できたのは、二人の背中が随分と遠ざかってからだ。
何も持たない拳を握り締めて、逃げるようにその場を駆け出した。
それが少年との出会いであった。





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