葉桜生い茂るある初夏の日。
ごく一部の後ろ暗い召喚師達で形成されている、世紀末信教<無色の派閥>の幹部にして名門(世間的には怪しい没落貴族)セルボルト家当主、オルドレイク・セルボルトは足取りも軽快に無駄に長い廊下を老年の執事を連れて歩いていた。
一歩踏み出すごとに床板がぎしぎし啼くが気にしない。
ちょこっと視界の右上隅に真っ黒な雨漏りの痕跡と危険な胞子でも飛ばしていそうなカビの群生が映るがこれも気にしない。
儀式貧乏(行う召喚儀式の頻度や諸経費が収入に見合っていない)の生活も今夜で終わる。しかる後に一見幽霊屋敷と見紛うこのおんぼろ屋敷を美しく立て替えれば結果オーライ。万事オーケー。

「今宵は満月!天気は快晴!ぬかりは無いな、セバスチャンよ!」

声高らかに問いかける主に、タキシードをきっちり着込み、立派に跳ね上がる鼻髭を蓄えた執事が抜かりなく答えた。

「はい、全て順調でございます。お坊ちゃま」

「…お坊ちゃまはやめろと言っておるだろう。私はもう四十八だ」

おでこと生え際の境も後退して久しい。
            
「はい、お坊ちゃま」

「………」   

オルドレイクを母親の股ぐらから取り上げたのはこの執事の今は亡き妻であった。乳母となっておしめも取替えてくれたらしい彼女と、九九から女の口説き方までじっくり教えてくれた親代わりとも呼べるこの男にオルドレイクは昔から頭が上がらない。
お坊ちゃんはやめろと何百回と苦言を吐いてきたが、なまくら返事でいつもさらりと流されてしまう。結局決着つかぬまま文句と応対が繰り返されるのだ。

「まぁいい。我が悲願の成就する記念すべきめでたい日だ。魔王を呼び出し世界を征服する!さぁ、とっとと準備を整え新たな門出を迎えようではないか!」

「はい、お坊ちゃま」

「では、早速ソルを呼び出し支度をさせよ」

「ソル様はおられません」

びたりと、オルドレイクの足が止まる。

「何だと?」

振り返り、頬をひくつかせる主に、執事は涼しげな表情であっさりと回答した。

「聖王都ゼラムで昨日より開催されております<世界異種格闘技大会>の観戦に出掛けておいでです。お帰りは明後日以降になるかと」

「うぬぅ、ソルめ!真っ先に召喚陣に放り込まれると知っていて逃げおったな!!何と言う親不孝者だ。嘆かわしい!」

逃げるに決まってんだろ。ばっかじやねーの。

腕組みしながら顎で父親をあしらう次男坊の姿がまざまざと蘇り、オルドレイクは怒り狂った。
拳を握り締めてぎりぎりと歯軋りまでする主の憤怒の形相にも全く動じる様子の無い執事が一言更に付け加える。

「帰りにウィステリア名物の<蹴鞠もなか>を買ってきてくれるそうですよ。あと、銘酒<初鶴>も頼んでおきました」

悪鬼のようにかっと見開いていた両目が決まり悪げな半眼となった。
故郷である田舎町ウィステリアの銘菓<蹴鞠もなか>は、鞠の形のもなかの中にこしあんがぎっしりと詰まったオルドレイクの大好物である。更に地酒<初鶴>などは一升瓶を一年かけて少しずつ、ちびりちびりと大切に飲むのがこのセルボルト家に『婿入り』してからのささやかな楽しみであった。
(因みにセバスチャンは箱入り息子のオルドレイクが事業買収された実家の債権のかたに無理矢理婿入りさせられたことを不憫に思い強引に付いて来た経緯がある)

そういえば異様に興奮した様子の次男坊が自室のトレーニング機材を壊しまくるのはこの時期だったなぁとか、居間のテーブルの上に誰も手を付ける様子の無い蹴鞠もなかがぽつんと置いてあるのもこの時期だし、セバスチャンが仰々しく一升瓶を差し出してくるのも確か…などと感慨深げに空を仰ぐオルドレイクの頭の中は最早土産物への期待で一杯である。

「ふん。おらぬなら仕方あるまい。では、キールの許へゆくぞ。あやつはソルとは違い根が真面目だからな。よもや逃げようなどとは思わぬだろう」

意気揚々と歩き出す主に、忠実な執事が再び提言した。

「キール様なら、先程居間で御見掛けしましたが。何でも…」

「居間だな!良し、ゆくぞ!」

「ああ、御待ち下さいお坊ちゃま…」

目的に集中する余り、視界も聴覚も狭まったオルドレイクに執事の微妙な引き止め具合を含んだ言葉は届かなかった。
自室に通ずる無駄に長い廊下を引き返して一路居間を目指す。
前進あるのみ。
行け行けゴーゴー。
だかだかと歩みゆく主の後を、思うところをあっさり飲み込んだ執事が同じ速度で付いて行く。齢七十六を数える老体であるにも関わらず、しゃんと背筋を伸ばし長い足をきびきび動かす姿は二回り以上違うオルドレイクより余程精力に満ち溢れて見えた。そういえば、頭髪も白髪ではあるもののオルドレイクと違ってふさふさのつやつやである。それをオルドレイクが気にしているのは公然の秘密だ。





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