主と執事の二人は黙々と歩いた。

目指すは長女クラレットが真昼間から閉じこもっている屋敷の離れ。通称『魔女の館』。
妖しげな振り付けと解読不能な祝詞で人の未来吉凶を占い法外な料金を受け取る、一歩間違えば詐欺罪で訴えられかねない危険なお仕事の現場である。
できれば生贄の候補からは外したい(と言うか関わりたくない)人物であったが背に腹は代えられない。
離れに通ずる渡り廊下を歩きながら、オルドレイクは胃の辺りをそっと押さえた。
慢性的な潰瘍の持病が疼き出したのである。
実父でありながら、それこそ目を合わせるだけでもなけなしの勇気を総動員せねばならない程オルドレイクは娘クラレットを苦手としていた。

戦場に赴くような鬼気迫る様相で渡り廊下の終点を目指していると、ふいに古ぼけた扉が開いて長く艶やかな紫紺の髪を背中に垂らした美しい長女が姿を現した。

はうっと、瞬間的にオルドレイクの肺が動きを止める。

「あら、お父様。何か私に御用かしら」

十歩ほど先で固まっている父親に気付いた長女が可憐な口許を緩めた。
その和やかな雰囲気に安心して緊張を解いたオルドレイクは大きく息を吐き出し、負担の掛かった胃と心臓を庇いつつ、用件を切り出した。

「ああ。例の儀式を行おうと思ってな。お前に是非責任者となって儀式を取り仕切ってもらいたいのだ」

何気に丁寧な言い回しで様子見をする父親の言葉に、クラレットはあっさりと頷いた。

「ええ、よろしいですわ」

「本当か!?」

狂喜乱舞、桜ふぶき紙ふぶき。オルドレイクの胸中は大変なことになってしまった。
初めて家族に自分の意見が通ったようで泣き出したくなる衝動に駆られながら、有り難う有り難うと力一杯抱きしめようとする父を、しかしクラレットはするりとかわした。

「それで、儀式はいつ行いますの?」

傾げる仕草で尋ねる娘に、オルドレイクは決まり悪げに視線を泳がせた。

今夜だ…などとは些か突然すぎるか。

しかし、星の位置と月暦を照らし合わせて上手い具合に符合した今を逃すと、次のチャンスはまた何年も先になってしまう。 初めから次男坊のソルを送り込むと決めていてた為、土壇場で逃げられぬよう子供達には儀式の日取りを明かしていなかったのだ。
仕方ない。

「突然ではあるが今夜行う。これを逃すと後がないのだ」

オルドレイクは咳払いを一つ零し、神妙な面持ちで正直に答えた。

「あら残念。儀式場のある西南西へは、私、行けませんわ」

間髪入れずにクラレットの美貌が綻ぶ。

何ですと?

あんぐりと顎を外す父。

「占いでそう出てますの。今日吉方は南南東か、北北西。だから私、これから北西の街にお出掛けしようと思ってましたの。申し訳ありませんがその役目は他の三人にお任せしますわ」

「し、しかしクラレット」

他の二人(…末娘カシスは除いている)にも事情が…。

わたわたと言い淀むオルドレイクに、しかし、クラレットは容赦無い。

「お父様は儀式を強行して私に無駄死にしろとおっしゃられるの?」

それまでの華やかな雰囲気が一転、長女の深い藍の眼差しが氷点下の世界を体現した。
微笑みながらも一切の表情を無くした双眸が放つ眼光で、彼女がこれまでどれだけの数、相手を再起不能に陥れてきたか。

ああ、ツェリーヌ!ツェリーヌがのり移っている!!

今は亡き妻の面影をまざまざと見せ付けられて、オルドレイクの心臓がショック状態を起こしかけた。
微笑で人を殺す女。それが生前よりツェリーヌの頂に付いて回った枕詞であった。
そして彼女の気質を最も色濃く受け継いだ長女の渾名は『腹黒聖女』。

この長女を贄にしようなどと、何と恐ろしいことを。初めから無理に決まっていたのだ。
心の芯まで凍えて真白になる父親に、長女はそういえばと言葉を付け加える。

「私、家族全員の方位を占ってみましたの。西南西が吉と出ていたのはお父様一人でしたわ。あらあら、もうこんな時間。これからお芝居を観に行かなければなりませんので失礼しますわね」

長い髪を揺らしながら軽やかに歩き去る長女を引き止める気力も無く。
その姿が見えなくなってから、拭えぬ怯えに殊更ゆっくりとした足取りで渡り廊下を戻り始める。
禍々しい微笑に精力を根こそぎ使い果たしてしまったオルドレイクの瞳孔が、ひさしから覗く空の青さに狭まった。






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