ソルが僕を喰おうとしたんです。







歌うような声音が、静寂の中に良く通った。
真白い夜着の鋭角に空いた襟首から艶かしい胸元を覗かせて、トウヤはレイドに微笑みかける。
レイドの部屋のベッドの上。お決まりに事に及ぼうとしたレイドの唇を、その夜のトウヤは寸前で押し留めて間合いを取った。結果二人はベッドの縁に腰掛けた状態でいる。
朝から浮かれていた理由はそれだったのか。
レイドは妙な息苦しさを覚えた。
細く開いた窓からの冷えた空気も、この淀みを消してはくれないだろう。清浄なものではいけない。

「それはまた、穏やかではないな。彼には獣が憑いているのか?」

心の細波はなるべく隠しておきたかった。

「そうかもしれません。まだ肩が疼いてる。貴方の噛み後とは比べ物にならないくらい」

細い指先が見せ付けるように上がる。
左手の小指には昨夜レイドが付けた歯形がくっきりと残っている。カサブタになっているが、まだ痛みはあるだろう。

共に在れぬ僅かな間も、私を忘れぬように…

その傷跡の意味を、果たしてトウヤは理解していたか。
明るい陽の下でさえ離したくないのだという心内の表れも、下らぬ戯れと取られたか。
失敗したかとレイドは思う。
いつの間にか、気まぐれでは済まされぬ程にこの少年に捕らわれている。
心の無い交わりだけの関係と割り切っていた筈なのに。

──遊びましょうよ。
   少しくらい、全部忘れて…

肉の形だけを確かめ合った。それだけのものが何時の間に。

魅入られて唇を許したのは彼を拾って三日目の、儀式跡を探索した後の夜だった。オプテュスとの戦闘でかつて慣れ親しんでいた疲れを久々に感じつつも高揚感を引き摺ってしまい、中々眠れぬからふらりと庭先に出た時だった。

少年は月の光を浴びていた。
目を閉じ、喉を晒し、静かに佇んでいた。

月光に侵されるその姿はヒトのものとは思えず、まるで精霊か魔物か、とにかくそんな類のものに感じられた。引き寄せられるよう、音を殺して歩み寄ったレイドに向けられた視線。そこに驚きは無く。
気配は消したつもりだった。それこそ細心の注意を払い。けれど、少年の知覚の方が上手であった。
だから一瞬、レイドの心は慄いた。
もしかしたら、儀式で呼ばれたこの少年は正しくヒトでは無いのではないか、と。

今晩は、レイドさん。

何時もと同じ声音で名を呼ばれなければ、疑念はレイドの中に深く根付いただろう。
羞恥に目を逸らし、隣に並んだレイドと会話するトウヤは至って普段通りであった。
それが、徐々に変貌していった。
レイドの視線が少年の髪や首筋、薄衣のラインを盗み見る度に、恐らく少年は確実に『欲』を感じとっていたのだ。

──レイドさん、
   屋根裏へ…

優しく誘われ、レイドは手を引かれるままに後をついていった。
美しい物を愛でること。それしか考えられなくなっていた。
その形が愛しい。そう感じたことをレイドは決して忘れなていない。
だから心など付属品でしかなかった。

それがいつ変わったのか。
何故、私だけが。

最早、トウヤの喜びは邪魔なものでしかなかった。
いつだって取り残されるのは自分だという思いがとぐろを巻く。
ラムダがそうであった。
一時の恋人もそうであった。
何もかもが自分を捨てて高みを目指している。
この少年も、求めるものを手に入れる為に一人で旅立つだろう。

私を残骸にするつもりか。


「ソルは貴方と違ってなり振り構ってないんです。僕にはそれが心地良い」

俯いた面のその口角が柔らかく上がった。
先程からソルと比較してばかりいるトウヤの言い様に、レイドの表情は強張ってゆく。
苛立ちの滲む声を隠しようが無かった。

「私は君に合わせたつもりなんだがな」

半ば投げやりに漏らした言葉に、レイドが煩わしさすら感じていた笑みがふいに消えた。トウヤの真剣な眼差しがレイドを射抜く。
レイドの呼吸が、実際に止まった。

「でしょうね。でも、ソルにはその余裕が無い。肉体を喰らい尽くした先にあるものまでも、彼は我武者羅になって欲した。セックスだけじゃ飽き足らず…。そこが貴方とは決定的に違うんです」

矢の如き視線がついと逸れて、レイドの身体からどっと力が抜けた。トウヤは腰掛けていたベッドから離れると、窓辺に立ち煌々と輝く月を見上げる。いつかの夜のように。

「気付かなかったんだ、僕も。自分の欲しいものが何なのか」

白い夜着の肩口に自身の手が添えられた。衣の下の噛み跡を愛しげに撫でる仕草を見せる。

「愛を乞うくらいなら、死んだ方がマシだって思っていましたから…」

月光を浴びる横顔は冴え冴えと白み、最早トウヤの関心はここに無いと思わせるに充分であった。




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