ぼんやりとしている間にどれだけの時間が経ったのか。ヘッドボードを見上げれば、そこにいるトウヤの上半身は花嫁のヴェールにも似た滑らかな曲線を持つ殻を頭頂部からすっぽり被っていた。背中の殻が成長した姿は、聖母のローブか後光を纏っている様だ。
覗き込んだ面の両眼は閉じられていた。

「トウヤ?」

不安になって声を掛けてみたが反応は無い。更に指で腹を押してみて、やっと僅かに指の関節が動くのを確認した。彼に大事は無いようだ。
ほっと息を吐きベッドに座り込んだ時、この貴重な時間を軽快なドアノックで邪魔する者が現れた。

「ソル、いつまで寝ているの。いい加減にしなさい!」

少女らしい高い声質に怒気を孕ませた、ここフラットの母リプレだ。
影では『女帝』と囁かれていて、逆らえば食事の制限などのひもじい思いをさせられることも多々ある。間違いなく一番敵に回したくない相手だ。

「悪かった。今行く」

声の調子から彼女が御立腹であるのを感じ取り、俺は慌ててベッドから降りた。足を靴に突っ込みながら、安らかに成長を遂げてゆく恋人を見る。
本当はいつまでだってトウヤを眺めていたかったが、粘った挙句彼女に踏み込まれては堪らない。何せこの部屋の唯一の出入り口に鍵は付いていないのだ。
トウヤの、この姿を見たら何と言うだろう。
彼女や他の連中に、今の彼の魅力が理解できるだろうか。

否、誰にも邪魔させる訳にはいかない。
この存在が、他の誰かに愛でられる姿など見たくはない。

やっと手に入れた安息を手放してなるものか。
例えばこれから先、異形へと変化した彼がその羽で飛び立ってしまうとしたら。
この絶妙なバランスの崩壊を彼自身がが望んだとしても、自分はきっとそれを許せない。
許せる筈が無い。

険しくなった表情を意識し、俺は軽く頭を振った。悶々と巡らせた想像が随分と物騒な結末に行き着いてしまったのだ。
扉の前に立ち、気分を切り替えるべく深く呼吸した後、金属製のドアノブに手を掛ける。
ヘッドボードを振り返り、もう一度トウヤの姿を確認してから廊下へと踏み出した。

ダイニングテーブルでは一揃えの朝食が冷たくなって主人の到着を待っていた。
黙って席に着いた俺に奥の水場で洗い物をしているリプレが気付くことはなく、彼女は思いの他しっかりとした両腕を忙しなく動かしながら大量の食器の後始末に没頭している。

「…いただきます」

彼女の仕事を邪魔せぬように…、と言うよりも、余計な詮索を受ける前に食事を済ませてしまおうと、申し訳程度に手を合わせてスプーンを取った。
初めは一口二口と冷めたスープを規則正しく口に運んでいた。
しかしその動作が長続きすることはなく、最後には咀嚼も間に合わぬ程、殆ど飲み込むようにしてスープ皿を空にする。
トウヤのことが気になって、とてもではないがゆるりと食事を摂る気にはなれない。
こうしている間に、誰かがあの部屋に入ってしまったら…。彼が劇的な変化を遂げてしまったら…。
ほんの少し離れただけで、取り留めの無い不安が俺の脳裏を埋め尽くした。

「ご馳走さん!」

食べ残したパンを上着のポケットに押し込み、中身を平らげた皿をもどかしく重ねて洗い場へと運んだ。如何なる理由があろうと日常のルールは守らねば後が煩いのだ。
水場に併設された作業台に重ねた食器を置いた時、彼女がやっと俺に視線を向けた。

奇妙な間が空いた。

彼女はただ、のっぺりとした表情で俺を眺めている。ただ、見ているのだ。

「ねぇ、ソル。貴方、何か隠してない?」

意識よりも先に体がビクリと反応してしまい、心中で己に舌打ちしながらもそ知らぬ態度で返す。

「何をだ?」
「隠してない…?」

明るい色の前髪の向こうで、黒に限りなく近い灰色の瞳が鈍く輝いた。
彼女は泡だらけの左手をだらりと下げて俺と向かい合った。日々の家事で荒れた指先から洗剤混じりの雫が足元のマットに染み込んでゆく。
紅などひくことのない清潔な口元が、俺の知らぬ印象を伴って言葉を吐き出した。



「彼を必要としているのは、貴方だけじゃないのよ」



その台詞に俺は悲鳴を上げかけた。
恐怖心を放出しかける口を右手で咄嗟に押さえ込みながら、身を翻して一目散にその場を逃げ出した。
この瞬間、俺の中のリプレという少女は怪物へと変化した。
人が獣を恐れるように、俺は彼女が恐ろしい。
迫り来るものは馴染み深い恐怖。

そう。彼女は世界そのものだ。

立場だとか、環境だとか、他人だとか、…故郷だとか。
俺からトウヤを奪って行こうとする全ての可能性。今の彼女はそういうものの象徴に見えた。

キッチンから数秒足らずで自室に転がり込んだ俺は、文字通り床に這いつくばって荒い息を吐き出した。
全力疾走の運動量を補う呼吸などではなく、精神的な揺さぶりに反応した心臓が過剰な働きを見せたせい。
鼓動が落ち着き、末端部分に血圧が戻って指先の凍えが解けるまで、俺はじっと扉の向こうを伺った。
この扉には鍵は無い。リプレがやってきたら、蛹の姿をしたトウヤは容易く奪われてしまう。
守りきることなど不可能だ。
相手は『世界』なのだから。
けれど彼女の足跡の気配は無く、十分以上たってから漸く深く息を吐いて緊張を解いた。
この部屋の中は安全と、何故かそう思う。
この薄っぺらい扉が世界から俺達を隔て、そして守ってくれているのだと。

指先で確かめる木の温もりに額を擦り付けて、ヘッドボードに視線を移した。俺の宝物は何も知らずに羽化の準備を進めている。

それで良い。

何も心配は要らないから、早く成虫へと育って欲しい。
あの艶かしい背中には、昆虫の羽根がきっと良く映えるだろう。

己の口角が引き攣れる程に上るのを、どこか遠い意識で感じていた。