枕に顎を乗せ、飽きずにトウヤを眺めた。
ただじっと、それこそ穴が空くほどに眺めていたけれど、人間の集中力なんてそうそう続くものじゃない。魔術の鍛錬で精神を高めた俺とて同様だ。寝たり座ったり、肩肘を両肘に代えて下顎を支えてみたりと何度か体勢を整えてみたものの、一時間もすると疲労感に苛まれて枕に深く頭を埋めた。
眠ってしまおうかな、とも思うが。
夢心地の間にトウヤの変化を見逃してしまうのは勿体無い。
さりとてこのままでは辛い。さて、どうしようか。
俺は恨めしげにトウヤを見上げ、愚痴を零した。

「早くちゃんとした姿を見せてくれよ、トウヤ…」

殻の揺り篭は胴の部分をじわじわと覆い、遂に彼の細い首をもびっしりと埋め尽してしまった。
全長10cmと大きめなのと、晒し首みたいな状態が少々グロテスクではあるが、そこを除けば最早見てくれは蝶の蛹と差異は無い。ただ、やはり変わった形はしている。上体を背後から守る殻も特殊だが、尾から腹にかけての突起部があり、横からだと海老の腹甲みたいな(絆創膏にも似た?)形状の一枚殻がずらりと張り付ついいるように見える。触ってみればフェルト生地の様に柔らかく、殻より皮といった表現の方が合っていた。

「あ…」

首までだった蛹皮が耳の下まで登って顎の内側を包んでいる。

「顔も、見えなくなっちまうのか…?」

情けなく眉が下がるのを止められない。
俺はトウヤの整った顔が好きだ。卵みたいに白くてバランスのとれた輪郭の中に、左右対称の絶妙な位置に両目があり、真っ直ぐに伸びた鼻の形状は甘く、唇は俺の物より厚くて触れ心地も最高。こいつが食い物を口に含むだけで簡単に欲情できる。
それなのに、全て殻の内側に埋もれてしまうのか。
とんでもなく惜しくて、不安になる。脱皮した姿が本当の蝶になっていたらどうしようなどと、埒も無い考えに唇を結んだ。
どんな姿でも愛せる自信はあるけれど、それでも今はこの顔が良い。
せめて、もう一度口付けておこう。
美しい姿のままで再会できることを祈りつつ小さな唇に自分のそれをそっと合わせた。
眠れる恋人の放つ芳香はやっぱり俺には刺激的で、一度のつもりのキスはずるずると続いた。



それから更に一時間が経った。
面積を拡大し続けた蛹皮は重装兵の兜如くトウヤの顔全面を覆い、遂に黒髪の一本すらも俺の視界から遮断してしまっていた。その薄皮の下で如何なる変化が訪れているのか予想だにできないが、いい加減心配し疲れたので、先程から読みかけの本を開いて横になっている。ただ字をなぞるだけのつまらない作業だ。実際、少しも頭に入った気がしない。けれど、他に時間を潰す方法も思い当たらないので、たらたらとページをめくって読む真似事をした。
時折トウヤを盗み見ては、兆しもないのにがっかりしつつ視線を紙面に落とし、二頁程めくってはまたトウヤの様子を伺って。
そんなことをしていたら、また記憶が途切れてしまった。
眠ってしまった様だ。だるくてだるくて、目を開けられない。

ヒソヒソ、ヒソヒソ

小さなざわめきがほんの数メートル先から聞こえた。

ヒソヒソ…くすくす…

今度は笑い声。
勘に触る。疎外感に居たたまれなくなる。人が集まるとそれだけ俺の居場所は削れていった。ここでできた多くの仲間達は決して嫌いではないし、慣れぬ環境にトウヤが随分と気をまわしてくれていたけれど、やはり俺にはその雑然とした空気が馴染めない。他愛も無い会話を楽しめるトウヤが、仲間達が、見知らぬ他人が羨ましいと心底思う。
それ故トウヤと二人きりになった時などは、場を持たせられぬ不甲斐なさを隠したくて、ろくな会話もせずにあいつを組み敷いていた。
初めはそう、強姦みたいに。

くす。

この笑い方はトウヤだ。
トウヤも雑談に加わっているのか。
俺は一人だ。
誰も気に留めてなんかくれない。
俺が無視した分だけ、人も無関心。わかってる。
わかってるけど…、俺は今一人なんだ。
一人なんだよ、トウヤ。俺に気付いてくれ。構って欲しい。
お前だけは俺を見捨てないで。

ざわざわ、ざわざわ

笑うなよ。何がそんなに可笑しいんだ。あんたたちの言葉はさっぱりわからない。

ざわざわ、ざわざわ。

ざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわ
ざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざ

煩い!黙れ!黙れ!!

だから嫌いなんだ。世界なんて邪魔な物だらけだ。俺には何の価値も無い。
この世界の為に闘ったことなど一度たりともない。かつて血を吐きながら突き進んだのは、トウヤがこの世の全てを愛していたからだ。

あいつの大切にしている物を守りたくて。あいつの気持ちを理解したくて。
世界を大事だと言えば、あいつはその度に優しく笑ってくれた。
とても嬉しそうに。

あの頃は俺自身もそれを本心と錯覚していたっけ。太平の願いの前にトウヤの笑顔があったことに気付きもせず。今はそれが偽善であり、全ては彼の関心を引く為であったのだと認識できている。
納得せざる終えないだろう。
扉の向こうが、こんなにも煩わしいのだから。

さわ…さわ…

雑音が遠退いてゆく。
これ以上耳を汚されることには耐えられないが、トウヤもまた『向こう』に付いて行ってしまうのは悲しい。
目を開けようとして、立ち上がろうとして、指一本動かない身体に涙が滲んだ。
自分以外に見向きもせず無気力に生きてきておいて、破壊の直前になったら事の重大さに押し潰されて助けを求めた、この都合の良さの報いなのだろうか。

誰もいなくなった部屋は、代わりに痛い位の静寂に包まれた。