それまでの瞼の重さが嘘のように解け、あっけなく両眼は開かれた。
相変わらずの埃っぽくて狭い部屋には何の変化もなく、扉は硬く閉ざされたままだ。
「………」
俺は夢を見ていたのだろうか。
開いた書物の上につっぷしたまま、眠ってしまっていたのか。
だとしたら、余りに短く浅い睡眠だった。覚醒した今、目覚めの気だるさは微塵も無い。いっそ、白昼夢と言ってしまった方がしっくりくるほどだ。
己の正気も疑わなくてはならないが。
気味が悪いまでに冴えた意識で、はっとトウヤを見上げた。
殻の頭頂部が僅かに割れ始めていた。
脱皮が始まったのだ。
飛び起きた勢いでヘッドボードに詰め寄り、くっつかんばかりにトウヤを注視した。蛹皮の亀裂はあっという間に裂けて行き、中から艶やかに濡れた黒髪が現れる。殻の中で体の向きを変えたのか、殻を突き破ったのは後頭部だった。
凄い、と。単純に感動する。変態と呼ばれる現象は如何なるものも劇的で驚異なものだ。
殻に包まれるプロセスからは考えもつかない速さで衣が剥がれていく。首が現れ、続いて双肩。背筋。その両脇のまだ萎れた黒い羽。全てが濡れて淫らに輝いていた。そして、今までとは比べ物にならないくらいに強く立ち籠もった芳香に、俺は脳髄までをも刺激された。まるで魔術儀式に使われる、トランス状態へのスムーズな移行を促す薬香を嗅いでいる様だ。
ヘッドボードに片手を掛けて時折揺れる視界に何とか耐えた。むせ返る匂いに幾度も呼吸を乱されながら、そこから逃げたいとは思わない。
これがトウヤの匂いだと、そう考えるだけで下腹部が熱くなる。
彼の物を口で煽っている時の、汗や体液の混じり合った濃密な匂いにも似て。
小さなトウヤはたった一分の内に全身を外気に晒し、四肢で這いながらゆっくりと殻の上部へと移動した。
後は翅を開いて、乾くのを待つだけだ。
白い背中でくしゃくしゃと纏まっていた翅が緩慢な動きで解けてゆく。
俺は息を呑んだ。展開された表翅は想像以上に美しく、黒い翅脈と薄い翅室で構成された前翅や後翅は、まるでトウヤの容姿を引き立てんが為に造られたのではと思わせた。元より備わっていた黒髪と漆黒の瞳に闇色の翅-が加わり、白い体皮とのコントラストが完成したのだ。
余りの絶景に溜息しか出ない。完全な昆虫の姿になってしまったらなどという危惧がかつて内に燻っていたことなど忘れ果てて、この変化が齎した幸福に酔いしれている間に、ひらり、ひらりと時折はためいた翅がぱっとに舞い上がった。
「あ…っ」
静止から躍動への突然のステップに驚き、思わず手を伸ばしてみたものの、大きな翅に似合わぬ俊敏さで天井の高さまで飛ばれてしまう。
「はは…。降りて来いよ、トウヤ」
ゆらゆらと優雅に舞う様に翻弄されながら、まるで花畑にでもいる心地になり自然に口元が緩んだ。実際に俺の脳裏ではステンドグラスを思わせる可憐な花々の上で飛び跳ねながら、トウヤを追い掛け回すイメージが容易に浮かんでいた。
「トウヤ、ほらほら。早く」
完全に小動物に対する呼びかけになる。手の平を上向けて指で招く仕草を繰り返した。
そんな俺の誘いも気付かぬのか、無視を決め込んでいるのか、トウヤは優雅な仕草で近くの洋服ダンスの側面に飛来した。
慌てつつも逃げられぬようそっと近寄り、壊れ物を扱う加減で胴の部分に右手を回してから、左手で翅を封じつつ捕らえる。薄く繊細なパーツを折ってしまわぬように細心の注意を払ってトウヤの表面を向けた。
どんな言葉を掛けてやろうかと考えを巡らしながら、細い足の指先から見上げていった。そうしているうちに辿り着いた彼の下腹部の中心で思わず視線が止まってしまう。
生殖器が無くなっていた。幼女のように茂みすら見当たらない。
トウヤは男どころか雄ですら無くなってしまったのか。そう思うと何だかこの状態が余り喜べるものでは無い気がした。浮かれ心地がじんわりと冷えてしまう。
けれど今更そんなふうに感じていることをトウヤに気取られたくは無くて、俺は多少無理のある笑顔でその容姿を褒め称えた。
「凄く奇麗な翅だな。まるで妖精みたいだぜ?」
言葉の内容自体は本心だ。
俺はこんなに美しい生き物を見たことはないのだから。きっとどこの世界を探しても見つからない。これ程までの艶姿は。
「トウヤ?」
そういえば先程から何度も話掛けているのに少しも返事が無い。そのことへの違和感に漸く至り、もう一度呼びかけてみてトウヤの異変に気付いた。
トウヤの表情はノウメンのように硬かった。喜怒哀楽の欠片も無く、そして…。
瞬きすらしていない。
「お、おい。トウヤって…」
翅を押さえていた左手の指先を頬に這わせて、返答を言外に求めた。細い細い両手足をそれこそ昆虫の如く緩やかに伸ばしたり縮めたりしている無表情なトウヤは、俺の言葉など全く理解できないようで、ひたすら直接的な刺激にのみ反応を示す。頬を撫でれば首を逸らし、手足は束縛から逃れようともがくのみ。
俺は愕然とした。
美しい翅を手に入れたトウヤは、代わりに心を無くしてしまっていたのだ。
これからどうすればいいのか、思いつく展望も無くベッドを背に座り込んだ。ぼんやりとした視線の先には、昆虫らしくゆらゆらと飛んではタンスに着地を繰り返すトウヤの姿。
こんな結末など、望むどころか想像すらしていなかった。トウヤが小さき存在になったと知った時にはただ嬉しくて。無条件に守って側に置けると信じて…。
結局俺は、愛玩動物が欲しかったのか。
いや、ペットを飼うのと同じに絶対的な権利でトウヤを縛りたかったのか。
それだけなら、トウヤの意思や人間性は不要だ。無ければ無いだけ思い通りになる。
「そうじゃない…。そんなんじゃない」
言い訳じみた台詞は情けなく、抱え込んだ膝に涙の滲んだ顔を埋めた。
馬鹿な願いにも程がある。愛したのはトウヤの容姿ではないのだ。俺を救ってくれた、あの強い心と優しさではないか。
しかし、だからこそ常に不安に晒されていたのも事実であった。
多くのモノに愛される…、それこそ人や獣を超越した世界の意思の寵愛をも受けていたトウヤの側にいつまでいられるのか、本当に隣を歩んでいいのか。それだけの資格が自分にあるのか。いつだって思い悩み苦しんできた。
最早彼を失くせば未来すら不要になると、そこまで俺は追い詰められていたのだ。
…そうだ。彼を完全に失う恐れに比べたら、今こうして姿だけでも留めていてくれる現状は最悪の状況を免れていると言うことでは無いだろうか。
霧が掛かった世界が少しだけ開けた気がした。
心を無くしてしまおうともトウヤであることには変わりないのだから、俺はこのままあの姿の彼を愛し続ければ良いのだ。大事に大事に育てれば、もしかしたら俺を認識して懐いてくれるかもしれない。あの頭の中にどれ程の脳が残っているかは疑問だが、先程の鬱屈した精神状態でいるよりも余程前向きで、そして魅力的な考えだった。
幾分軽くなった腰を持ち上げて、もう一度トウヤを捕まえようと立ち上がる。
一歩踏み出せば気配を察したトウヤも翅をはためかせて宙に浮かんだ。
波状を描いてゆらゆらと彷徨う嬌態を、一度目よりも確実な動きで素早く掴んだ。
初めの感触で見かけ程脆弱では無いと悟ったから、今度は然程気を使うこと無く掌中に収めることができた。翅さえ乱暴に扱わなければ良い。
さわさわと動く四肢の抵抗はこそばゆく、ふと笑みが浮かんでささやかな幸福を感じた。
俺が好きなのはお前だけ。
どんなふうになったって、お前以外のモノはいらない。
彼の小さく可憐な唇に口付ける。
それは衝動であり、確認であり、誓いであった。
不安定な体勢で接吻を受け止めた彼は、反射的に足場を求めて俺の唇にしがみ付き、そして俺の指から解放されても逃げずにそのまま頬へとよじ登った。
そんな行動が堪らなく愛しかった。
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